それは、数日前に空からふってきたお告げ(笑)でした・・

うう~ん?え?何が、、?って感じでしたが、どうもそうらしい、とも感じました。このところの私の気づきは、とても言葉にしにくい新しい感覚なのです。

最近天気が不安定ですよね。
春だから、とえいばそれまでなのですが、
天気や、自分の目の前に起こっているいろんな状況というのは、すべて自分の内面や自己の状況とリンクしていますよね。シンクロが沢山おこってくるようになると、天気や周囲の状況は自分と一体なんだとより感じるようになります。

ところで、ちょっと前、何だかとても辛いと感じる出来事がありました。
人間関係に関することだけれど、普段私は人間関係でまずトラブるってコトがないので、久々にこたえました。

その時の傷の感覚をたとえていうならば、よく切れるナイフでサクっとハートを切られたのだけど、あまりにもよく切れるナイフだったために何が起こっているのかよく分からずに呆然と立ちすくしていて、気がついたら足もとにはハートから滴りおちた血の水たまりができていた・・みたいな感じ。
平気だから歩こうとしたら、ずきっと体中を痛みが襲った、、みたいな。

誤解のないように言うと、誰かにひどいことをされた、というわけではないのです。たとえどんな現象であろうとも、人生の出来事はすべて自作自演なんだと、とりわけ今回の事では痛感しました。

たとえばあなたが誰かと接して傷つけられた、あるいは誰かを傷つけた、と感じていたとしても「誰かが誰かを傷つけるという事は本来あり得ない。その人が傷ついたとしたら、それはその人が勝手にそれを選んでいるだけで、誰かのことを《傷つける》などという大層な、傲慢な事は本来できないのだ」
というのは本当にそうだと、実感しました。
そこに登場する関係者はすべて、魂のレベルでは暗黙の了解済みで、承知してその役をやっている、ということも。

に、してもしんどかったですけどね。その渦中にいる時は。
「一体何の意味があるの?」
そこそこ自由になったつもりでいて、ワクワクと素晴らしい良いことだけを現実創造していくつもりになっていて、、この期に及んで、何を学べというのさ??みたいなものです。

まぁ、土台甘いのですよね~、ちょっと自由になると、人間すぐ悟ったような気分になるのですが(笑)。
そんな表面意識のエゴの願いなんか、魂の望みの強力さに比べたら紙っぺらのようなものなのです。自分本来の願いの強力さというのは、一旦それを解放しだしたら、嫌が上にも顕現します。ま、それを願っているのは他でもない、この自分自身なのですけれど。

けど、しんどい時というのはやはりしんどいのです。
このしんどさから何とかラクになろうとします。
ま、人間、自然治癒能力があるので、傷なんていつかは癒されるにきまっているのですが、それでももがくのです。

何年も前、やはりある事でとても苦しかった時のことを思い出しました。
その頃、坐禅に通っていたのですが、その日も這うようにして行った坐禅会で体験したこと。
あまりにも苦しいので、じっと座っている事さえ奇跡に思えたそんな中で、そういう時というのは、その苦しみから逃れられる「あるスポット」を探しているかのようでした。それは何故そうしたのか分かりません。それはもう自分の中で知っていた事なのかもしれません。

そういう必死の格闘の中で1時間か2時間座っていたのでしょう。
ある瞬間、それは起こると同時に、一切のそれまでの苦しさが消え去りました。目をつむっているはずなのに、あたり一面が深い藍色に染まり、完全に脳の思考活動が停止しました。体の感覚もどこか遠くへいきました。
それと同時にその坐禅会場に座っている自分もちゃんと感じていました。

それはとても不思議な感覚でした。
坐禅会が終わって、茶話会になり、禅の師匠(老師)に参加者が質問をしたりしているのですが、そうなってもまだ脳は活動しません。麻酔にかかったまま、さっきの体験は何だったのか、いいのか、悪いのか、ぼう然として自分でも分かりません。

そこで老師にこんな事がさっきあったが良いのでしょうか、と質問したところ、老師はこともなげに
「そうなるために、やるんだよ」
と答えられました。
「でもまったく頭が働かなくなり、今でもまだ働いていません」
という言うと
「頭なんて働かなくていいんだよ。
それだけ苦しけりゃ必死になってやるでしょう。必死になって探したからみつけたのでしょう。
そうならなきゃ、腹は切れんよ」
とニヤリと笑って答えてくださいました。

別にハラは切らなくてもいいんだけど、、とかその時は思いながら(笑)
そうなのか~と、何となくちょっとした気づきの入り口を体験したのだな、と感じました。

そんな体験はその時かぎりで、今名前をつけるならば、完全な「静寂」とでもいうのでしょうか。その完全な静寂の中にはすべての音がある、、というような感覚でしょうか、、。
あの時の感覚を思うと、普段どれだけ無駄な思考を働かせていることか、と思います。

で、今回その時の事を思い出していたのですが、坐禅をしようとは思わかなかったのです。しかし何かを探していました。
そしてそれは、ある人の一言から繋がりました。

「苦しみそのものが、宇宙の愛(シャクティー)である」

というその一言。
その一言が、どんなに辛いと感じても泣けなかった私に、せきをきったような号泣と、安堵と、怒涛のような愛をもたらしました。

つまり、悲しみとか、痛み、苦しみって、幸せや楽しさ嬉しさ喜び、の対極にあるもので、これまでの私は
「成長できるから、苦しみも素晴らしい」
だったり
「辛さから学べる」
という、いたってフツーのレベルで苦しみやつらさを肯定していた。
そしてそれは、昔の修行時代のように、必要以上に得なくてもいいのだと言う事が分かった、とかなんとか言っていた。

でも、この時感じたものはもっと次元の違うもので
「苦しみ」や「痛み」
に一切のマイナスやネガティビティーのない、愛(恵み)そのものである、という感覚だったのです。
これはちょっと初めての体験でした。

その事が起こった後、意識して「観念の浄化」という事を行うようになりました。そうすると、あの坐禅で味わった感覚に近い感覚、そう脳に麻酔をしたような感じを味わうようになりました。
余計な思考や自分を縛っている観念が少しずつ雲のように取り払われていくのです。それは現実をも動かしていきます。
やはり自分の想念が現実を創っている、改めて、いやという程実感するのです。

何か私、思うんですけど、人類はやはり今とんでもない価値観のアセンションを行っているのだと。
こういう事を書いていると、私は何か特別な境地にいる人とか、特殊能力をもっているとか、フツーの一般人の意識は超悦しているのか、とか思う人もいるようなのですが、普段の私っていったってフツーの人なのです。

幼なじみとか学生時代の友達や、勤め人時代の友人ともずっとつきあっているし、くだらないテレビも見るし、たまに踊りにいったり遊んだりもするし、フツーに恋愛して結婚して、ついでに離婚もしたけど、まぁまた恋愛して、最終彼氏(笑)をみつけたら再婚でもして、平和にノンビリ暮らしていきたい、と思っているフツーの女なのです。

けど、同時に私の魂はチャレンジしている、と認めざるを得ないのです。
そしてもうそれには抵抗しない事にしています。
抵抗してもムダだから。

私から見ると、今の世の中には、もう抵抗しなければ、本来の自分の役割を思う存分生きられるのに、と思う人も多くいます。
使命とかっていうと何か自己犠牲的なニュアンスが漂うけれど、本当はこれって「自分が本当に幸せだと感じられるコト」と同義語なんですよね。

「きがついたら、うまくいっているよ」

というメッセージは、そんなエゴを越えた世界からのもので、自分が思い描く「こうなりたい」「ああなりたい」なんかより、もっともっと素晴らしいものを、宇宙は用意しているんだと、という事のようです。

だから今あなたが、目の前の事が思うようにならないとしても、それはきっともっと良いことがあなたに降り注いでいるからに違いなくて、それをあなたは、まるで幸せのシャワーを傘でよけるように、はねのけているから、なのですね。

こういう人生での体験とか経験というのは、一人では出来ないものです。
だいたい縁のある人達が、何らかの役割をかってくれて実現するものなのです。強烈な感情を伴う経験は、大体において、ソウルメイトたちがその役割をかってくれる事が多いものです。
ま、だからといって、このソウルメイトたちをその役割に縛ってはいけないのです。この地上ではすべて自由意志に任されていて、ご縁と自由意志のかねあいでいろんな事が動いています。

と、思うと自分の人生の大切なところに登場してくれる、この素晴らしい魂の仲間達に本当に本当に深い愛と感謝の思いが湧いてくるのです。。

やっぱり人生って素晴らしいんだな~、、と思うのです。

どこまでも可能性があって、こうなったらいいのにな、の上にももっといい事が起こり得る、それをみんなで受け入れていきたいね、と思うのです。

何重もの次元で物事は動いているのですもんね・・。

Let’s have a nice trip together !!

それは、数日前に空からふってきたお告げ(笑)でした・・

うう~ん?え?何が、、?って感じでしたが、どうもそうらしい、とも感じました。このところの私の気づきは、とても言葉にしにくい新しい感覚なのです。

最近天気が不安定ですよね。
春だから、とえいばそれまでなのですが、
天気や、自分の目の前に起こっているいろんな状況というのは、すべて自分の内面や自己の状況とリンクしていますよね。シンクロが沢山おこってくるようになると、天気や周囲の状況は自分と一体なんだとより感じるようになります。

ところで、ちょっと前、何だかとても辛いと感じる出来事がありました。
人間関係に関することだけれど、普段私は人間関係でまずトラブるってコトがないので、久々にこたえました。

その時の傷の感覚をたとえていうならば、よく切れるナイフでサクっとハートを切られたのだけど、あまりにもよく切れるナイフだったために何が起こっているのかよく分からずに呆然と立ちすくしていて、気がついたら足もとにはハートから滴りおちた血の水たまりができていた・・みたいな感じ。
平気だから歩こうとしたら、ずきっと体中を痛みが襲った、、みたいな。

誤解のないように言うと、誰かにひどいことをされた、というわけではないのです。たとえどんな現象であろうとも、人生の出来事はすべて自作自演なんだと、とりわけ今回の事では痛感しました。

たとえばあなたが誰かと接して傷つけられた、あるいは誰かを傷つけた、と感じていたとしても「誰かが誰かを傷つけるという事は本来あり得ない。その人が傷ついたとしたら、それはその人が勝手にそれを選んでいるだけで、誰かのことを《傷つける》などという大層な、傲慢な事は本来できないのだ」
というのは本当にそうだと、実感しました。
そこに登場する関係者はすべて、魂のレベルでは暗黙の了解済みで、承知してその役をやっている、ということも。

に、してもしんどかったですけどね。その渦中にいる時は。
「一体何の意味があるの?」
そこそこ自由になったつもりでいて、ワクワクと素晴らしい良いことだけを現実創造していくつもりになっていて、、この期に及んで、何を学べというのさ??みたいなものです。

まぁ、土台甘いのですよね~、ちょっと自由になると、人間すぐ悟ったような気分になるのですが(笑)。
そんな表面意識のエゴの願いなんか、魂の望みの強力さに比べたら紙っぺらのようなものなのです。自分本来の願いの強力さというのは、一旦それを解放しだしたら、嫌が上にも顕現します。ま、それを願っているのは他でもない、この自分自身なのですけれど。

けど、しんどい時というのはやはりしんどいのです。
このしんどさから何とかラクになろうとします。
ま、人間、自然治癒能力があるので、傷なんていつかは癒されるにきまっているのですが、それでももがくのです。

何年も前、やはりある事でとても苦しかった時のことを思い出しました。
その頃、坐禅に通っていたのですが、その日も這うようにして行った坐禅会で体験したこと。
あまりにも苦しいので、じっと座っている事さえ奇跡に思えたそんな中で、そういう時というのは、その苦しみから逃れられる「あるスポット」を探しているかのようでした。それは何故そうしたのか分かりません。それはもう自分の中で知っていた事なのかもしれません。

そういう必死の格闘の中で1時間か2時間座っていたのでしょう。
ある瞬間、それは起こると同時に、一切のそれまでの苦しさが消え去りました。目をつむっているはずなのに、あたり一面が深い藍色に染まり、完全に脳の思考活動が停止しました。体の感覚もどこか遠くへいきました。
それと同時にその坐禅会場に座っている自分もちゃんと感じていました。

それはとても不思議な感覚でした。
坐禅会が終わって、茶話会になり、禅の師匠(老師)に参加者が質問をしたりしているのですが、そうなってもまだ脳は活動しません。麻酔にかかったまま、さっきの体験は何だったのか、いいのか、悪いのか、ぼう然として自分でも分かりません。

そこで老師にこんな事がさっきあったが良いのでしょうか、と質問したところ、老師はこともなげに
「そうなるために、やるんだよ」
と答えられました。
「でもまったく頭が働かなくなり、今でもまだ働いていません」
という言うと
「頭なんて働かなくていいんだよ。
それだけ苦しけりゃ必死になってやるでしょう。必死になって探したからみつけたのでしょう。
そうならなきゃ、腹は切れんよ」
とニヤリと笑って答えてくださいました。

別にハラは切らなくてもいいんだけど、、とかその時は思いながら(笑)
そうなのか~と、何となくちょっとした気づきの入り口を体験したのだな、と感じました。

そんな体験はその時かぎりで、今名前をつけるならば、完全な「静寂」とでもいうのでしょうか。その完全な静寂の中にはすべての音がある、、というような感覚でしょうか、、。
あの時の感覚を思うと、普段どれだけ無駄な思考を働かせていることか、と思います。

で、今回その時の事を思い出していたのですが、坐禅をしようとは思わかなかったのです。しかし何かを探していました。
そしてそれは、ある人の一言から繋がりました。

「苦しみそのものが、宇宙の愛(シャクティー)である」

というその一言。
その一言が、どんなに辛いと感じても泣けなかった私に、せきをきったような号泣と、安堵と、怒涛のような愛をもたらしました。

つまり、悲しみとか、痛み、苦しみって、幸せや楽しさ嬉しさ喜び、の対極にあるもので、これまでの私は
「成長できるから、苦しみも素晴らしい」
だったり
「辛さから学べる」
という、いたってフツーのレベルで苦しみやつらさを肯定していた。
そしてそれは、昔の修行時代のように、必要以上に得なくてもいいのだと言う事が分かった、とかなんとか言っていた。

でも、この時感じたものはもっと次元の違うもので
「苦しみ」や「痛み」
に一切のマイナスやネガティビティーのない、愛(恵み)そのものである、という感覚だったのです。
これはちょっと初めての体験でした。

その事が起こった後、意識して「観念の浄化」という事を行うようになりました。そうすると、あの坐禅で味わった感覚に近い感覚、そう脳に麻酔をしたような感じを味わうようになりました。
余計な思考や自分を縛っている観念が少しずつ雲のように取り払われていくのです。それは現実をも動かしていきます。
やはり自分の想念が現実を創っている、改めて、いやという程実感するのです。

何か私、思うんですけど、人類はやはり今とんでもない価値観のアセンションを行っているのだと。
こういう事を書いていると、私は何か特別な境地にいる人とか、特殊能力をもっているとか、フツーの一般人の意識は超悦しているのか、とか思う人もいるようなのですが、普段の私っていったってフツーの人なのです。

幼なじみとか学生時代の友達や、勤め人時代の友人ともずっとつきあっているし、くだらないテレビも見るし、たまに踊りにいったり遊んだりもするし、フツーに恋愛して結婚して、ついでに離婚もしたけど、まぁまた恋愛して、最終彼氏(笑)をみつけたら再婚でもして、平和にノンビリ暮らしていきたい、と思っているフツーの女なのです。

けど、同時に私の魂はチャレンジしている、と認めざるを得ないのです。
そしてもうそれには抵抗しない事にしています。
抵抗してもムダだから。

私から見ると、今の世の中には、もう抵抗しなければ、本来の自分の役割を思う存分生きられるのに、と思う人も多くいます。
使命とかっていうと何か自己犠牲的なニュアンスが漂うけれど、本当はこれって「自分が本当に幸せだと感じられるコト」と同義語なんですよね。

「きがついたら、うまくいっているよ」

というメッセージは、そんなエゴを越えた世界からのもので、自分が思い描く「こうなりたい」「ああなりたい」なんかより、もっともっと素晴らしいものを、宇宙は用意しているんだと、という事のようです。

だから今あなたが、目の前の事が思うようにならないとしても、それはきっともっと良いことがあなたに降り注いでいるからに違いなくて、それをあなたは、まるで幸せのシャワーを傘でよけるように、はねのけているから、なのですね。

こういう人生での体験とか経験というのは、一人では出来ないものです。
だいたい縁のある人達が、何らかの役割をかってくれて実現するものなのです。強烈な感情を伴う経験は、大体において、ソウルメイトたちがその役割をかってくれる事が多いものです。
ま、だからといって、このソウルメイトたちをその役割に縛ってはいけないのです。この地上ではすべて自由意志に任されていて、ご縁と自由意志のかねあいでいろんな事が動いています。

と、思うと自分の人生の大切なところに登場してくれる、この素晴らしい魂の仲間達に本当に本当に深い愛と感謝の思いが湧いてくるのです。。

やっぱり人生って素晴らしいんだな~、、と思うのです。

どこまでも可能性があって、こうなったらいいのにな、の上にももっといい事が起こり得る、それをみんなで受け入れていきたいね、と思うのです。

何重もの次元で物事は動いているのですもんね・・。

Let’s have a nice trip together !!