以前、坐禅に通っていたとき、ある人が老師に質問して
「仏教は諦めの宗教、キリスト教は希望の宗教
というけれど、あなたはどう思いますか?」
と聞いていました。
老師は 「な~にを抜かすか。と言いたいところだけれど、そりゃその通りとも言えますよ」
と仰っていました。
「諦め」
といういうと、すごく後ろ向きなようなだけど、実はコレ
「降伏(サレンダー)」
ってことで、エゴの終焉。大いなるものへ自分を明け渡す ということと同意。
ということを説明されたかったのだと思います。
自分の思い通りの人生にしたい、ああしたい、こうしたい
アレをこうして、いついつああなって、こうやって、こんな人が出て来て、何をどんな風にどうしてこうして・・。
その通りに無理にでも自分をつくっていこうとする。
そんなプロセスもとても楽しいし、ナイスなことだと思う。
だけど、
つくづく思うことは、その先(本来先でも後でもないのでしょうが)には
そんなものさえ明け渡してしまう時がやってくる。
そうなるまでに、さんざん私たちはもがく。
じたばた体中、頭中、スピリット中駆使して、もがいて自力で何とかできるはずだと奮闘する。
そして、いつか疲れる。
疲れて、倒れて、それを全部明け渡したところにあるものを見る。
それを、老師は 諦め=サレンダー(大いなるものへの、自己の終焉)
と言ったのでしょう。
全部投げ出して、我力を脱力した時、降ってくるもの。
そこにあるもの。
それって、ほんとうに、つくづくと、心から
いいな~
最高だな~
気持いいな~
それ以上のものなど、もともとありはしなかったんだな~
と、ただそうなんだな
と、ただただ思う。
あの事も、この事も、これから先も、自分が思ったり決めたりした以上のものを私は体験したいんだし、するんだという不思議な実感。
そんな事が、みょ~にしっくりときて
しみじみその宇宙の恩恵の深さに浸るのです。
そういうわけで
「絶望」って悪くないよな~って思います。
逆に、絶望も期待もできないような、いい加減で嘘くさい、偽りの脚色人生より、はるかにマシだと思うのです。
絶望するというのは、何かを必死に求めて、手に入れたい、達成したいと望み、愛し愛されたいと強く願い、何かに、どこかに向かって、一生懸命、自分の望みに正直に、生きてきたことの証ですらあると思う。
その末に、何か目に見える物を得るか得ないかの結果は、一つの結果にすぎなくて、そこには実は、あんまり大きな差はないのではないかと最近思う。
(地上的には大有りですが)
神様は、そこは見ていない。
地上的な結果は、一つの見方にすぎなくて。
感情の一番低い波動領域ともいえる「絶望」(怒りなどより遥かに低いのです)
に、もし行き着くことがあったら、それは実は凄いチャンスなのだと思う。
まさにその時わたしたちのエゴは力尽きて、自らを生かす大いなる力の源と、一体となれるかもしれないから。
以前、坐禅に通っていたとき、ある人が老師に質問して
「仏教は諦めの宗教、キリスト教は希望の宗教
というけれど、あなたはどう思いますか?」
と聞いていました。
老師は 「な~にを抜かすか。と言いたいところだけれど、そりゃその通りとも言えますよ」
と仰っていました。
「諦め」
といういうと、すごく後ろ向きなようなだけど、実はコレ
「降伏(サレンダー)」
ってことで、エゴの終焉。大いなるものへ自分を明け渡す ということと同意。
ということを説明されたかったのだと思います。
自分の思い通りの人生にしたい、ああしたい、こうしたい
アレをこうして、いついつああなって、こうやって、こんな人が出て来て、何をどんな風にどうしてこうして・・。
その通りに無理にでも自分をつくっていこうとする。
そんなプロセスもとても楽しいし、ナイスなことだと思う。
だけど、
つくづく思うことは、その先(本来先でも後でもないのでしょうが)には
そんなものさえ明け渡してしまう時がやってくる。
そうなるまでに、さんざん私たちはもがく。
じたばた体中、頭中、スピリット中駆使して、もがいて自力で何とかできるはずだと奮闘する。
そして、いつか疲れる。
疲れて、倒れて、それを全部明け渡したところにあるものを見る。
それを、老師は 諦め=サレンダー(大いなるものへの、自己の終焉)
と言ったのでしょう。
全部投げ出して、我力を脱力した時、降ってくるもの。
そこにあるもの。
それって、ほんとうに、つくづくと、心から
いいな~
最高だな~
気持いいな~
それ以上のものなど、もともとありはしなかったんだな~
と、ただそうなんだな
と、ただただ思う。
あの事も、この事も、これから先も、自分が思ったり決めたりした以上のものを私は体験したいんだし、するんだという不思議な実感。
そんな事が、みょ~にしっくりときて
しみじみその宇宙の恩恵の深さに浸るのです。
そういうわけで
「絶望」って悪くないよな~って思います。
逆に、絶望も期待もできないような、いい加減で嘘くさい、偽りの脚色人生より、はるかにマシだと思うのです。
絶望するというのは、何かを必死に求めて、手に入れたい、達成したいと望み、愛し愛されたいと強く願い、何かに、どこかに向かって、一生懸命、自分の望みに正直に、生きてきたことの証ですらあると思う。
その末に、何か目に見える物を得るか得ないかの結果は、一つの結果にすぎなくて、そこには実は、あんまり大きな差はないのではないかと最近思う。
(地上的には大有りですが)
神様は、そこは見ていない。
地上的な結果は、一つの見方にすぎなくて。
感情の一番低い波動領域ともいえる「絶望」(怒りなどより遥かに低いのです)
に、もし行き着くことがあったら、それは実は凄いチャンスなのだと思う。
まさにその時わたしたちのエゴは力尽きて、自らを生かす大いなる力の源と、一体となれるかもしれないから。