「慈しみ」という言葉は、本当に美しい言葉だなと思うのです。

私はすべての言葉の中でも、””divine””(ディバイン)(神性の、神聖な、の意味)という英単語が大好きだと思っていたのですが、この「慈しみ」という言葉には、それと共通の美しさとバイブレーションを感じています。

誰か、そして何かに対し「慈しみの心」を感じるとき、さらにその感覚を味わってみると、そこには

「私が」「誰かに対して」「慈しみの心」を感じている

というような、明確な「個の感覚」が薄れていて

もはや、感じているのは私なのか、それとももっと大いなる存在としての我なのか、対象はあの人なのか、それともその現象なのか、或はそうしたもの一切合切を含めた対象なのか

もうよく分からないような、全体性に溶けている感覚があります。

その時、「個としての私」は

ああ、これは「感じさせていただいている」のだな

と、思います。

「有り難い」というのは、こういう事なのだと思い

感謝のバイブレーションが、宇宙の法則にのる秘訣だというのも
実感として染みてきます。

それとは逆の方向性が、

「個」としての「私」が、また対象の「個」としての「誰か」や「何か」に執着して、大いなるものとの繋がりやパワーを自ら切り離した状態。
それを

「執着」

というと思います。

これは非常に不自由であって、八方を塞ぐ不快な状況をもたらします。

先日個人のリーディングレッスンの中で第六チャクラ(第三の目)の説明をしているとき、この真実を見る目を使う洞察力というのも、それまでその回路を使う癖がなかった人も、子どもの頃は花や自然の美しさを愛でる感性がまだ育っていなくても、大人になるとその美しさに愛でる感性が養われるように、いろいろな体験をして、より真実を見たいと思う気持ちと少しの訓練によって、この第三の目というのは開いて来る、という説明をしている私がいました。

このような説明は頭には入っていなかたったので初めてした解説ですが、このように、どうしたらこの目の前の人の魂に、役立つことをお伝えできるだろうという気持ちでいると、大いなるものと繋がって、慈しみの心とともにいろいろな事を教えていただいたり、行動できるようになってきます。

しかしながら、そのような状態になるには、自分自身を省みる気持ちが不可欠だと思います。
一回二回やりました、というのではなく

省みつづける

ということが、結局のところ一番の早道のように思います。

それを 成長 というのでは、と思います。

生きている、ということは、本当に有り難いことで

どんな状況の中でも、

たとえどんな事があろうとも

この慈しみの視点を思い出すことさえ出来れば、

(それは、ひとしずくのお茶であっても、道ばたの草花であっても

絶望の中でも誰かの一言や、何気ない励ましのスキンシップでも何でも・・)

私たちを生かす 大いなる宇宙の摂理と繋がれるようになっています。

瞑想というものは、本当に素晴らしいもので

絶対的な威力でその恩恵に帰りやすくしてくれるのですが

どうしても出来ないという人も少なくありません。

もしかしたら、今生で瞑想に縁がないのかもしれません。

それでも、この慈しみの心は、小さな事への感謝の気持ちから

誰でもが思い出すことができるものです。

何故なら私たち全員がそこから来ているのであり

中心には、絶対的な威力で存在している生命の源にあるものだからです。

生きている、ということは

そして

成熟していけるということは

本当に有り難いことなのだと思います。

 

 

アメブロも日々更新中!

 

「慈しみ」という言葉は、本当に美しい言葉だなと思うのです。

私はすべての言葉の中でも、””divine””(ディバイン)(神性の、神聖な、の意味)という英単語が大好きだと思っていたのですが、この「慈しみ」という言葉には、それと共通の美しさとバイブレーションを感じています。

誰か、そして何かに対し「慈しみの心」を感じるとき、さらにその感覚を味わってみると、そこには

「私が」「誰かに対して」「慈しみの心」を感じている

というような、明確な「個の感覚」が薄れていて

もはや、感じているのは私なのか、それとももっと大いなる存在としての我なのか、対象はあの人なのか、それともその現象なのか、或はそうしたもの一切合切を含めた対象なのか

もうよく分からないような、全体性に溶けている感覚があります。

その時、「個としての私」は

ああ、これは「感じさせていただいている」のだな

と、思います。

「有り難い」というのは、こういう事なのだと思い

感謝のバイブレーションが、宇宙の法則にのる秘訣だというのも
実感として染みてきます。

それとは逆の方向性が、

「個」としての「私」が、また対象の「個」としての「誰か」や「何か」に執着して、大いなるものとの繋がりやパワーを自ら切り離した状態。
それを

「執着」

というと思います。

これは非常に不自由であって、八方を塞ぐ不快な状況をもたらします。

先日個人のリーディングレッスンの中で第六チャクラ(第三の目)の説明をしているとき、この真実を見る目を使う洞察力というのも、それまでその回路を使う癖がなかった人も、子どもの頃は花や自然の美しさを愛でる感性がまだ育っていなくても、大人になるとその美しさに愛でる感性が養われるように、いろいろな体験をして、より真実を見たいと思う気持ちと少しの訓練によって、この第三の目というのは開いて来る、という説明をしている私がいました。

このような説明は頭には入っていなかたったので初めてした解説ですが、このように、どうしたらこの目の前の人の魂に、役立つことをお伝えできるだろうという気持ちでいると、大いなるものと繋がって、慈しみの心とともにいろいろな事を教えていただいたり、行動できるようになってきます。

しかしながら、そのような状態になるには、自分自身を省みる気持ちが不可欠だと思います。
一回二回やりました、というのではなく

省みつづける

ということが、結局のところ一番の早道のように思います。

それを 成長 というのでは、と思います。

生きている、ということは、本当に有り難いことで

どんな状況の中でも、

たとえどんな事があろうとも

この慈しみの視点を思い出すことさえ出来れば、

(それは、ひとしずくのお茶であっても、道ばたの草花であっても

絶望の中でも誰かの一言や、何気ない励ましのスキンシップでも何でも・・)

私たちを生かす 大いなる宇宙の摂理と繋がれるようになっています。

瞑想というものは、本当に素晴らしいもので

絶対的な威力でその恩恵に帰りやすくしてくれるのですが

どうしても出来ないという人も少なくありません。

もしかしたら、今生で瞑想に縁がないのかもしれません。

それでも、この慈しみの心は、小さな事への感謝の気持ちから

誰でもが思い出すことができるものです。

何故なら私たち全員がそこから来ているのであり

中心には、絶対的な威力で存在している生命の源にあるものだからです。

生きている、ということは

そして

成熟していけるということは

本当に有り難いことなのだと思います。

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しずくの中の観音様

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