今から一昔、二昔(?)以上前のおハナシになりますが・・。
フランスで学生だった私は、夏のアルバイトとして南仏で行われる日本凧エクスポジションの案内係の仕事を引き受けました。
南仏のベジエという小さな街で2週間程過ごしながらこのアルバイトに通っていたのですが、その街で当時のフランス人ボーイフレンドと知り合い、バイト期間が終るや否や、彼の誘いでスペインへのバカンスに旅立ちました。(若いって気軽でイイですよね。笑)
旅行といっても、彼のおんぼろシトロエンでひたすら走って走って、南仏から彼が小さい頃よく夏を過ごしたというスペインのアンダルシア地方まで行くという計画でした。
赤茶けた土が剥き出しのスペインの山々や田舎町を沢山通過して、スペインの南部、アンダルシア地方まで到着すると、そこでは夏のお祭りをやっていて、沢山の女の子たちがフランメンコの衣装で踊っていました。
小学生くらいの小さな女の子達も、綺麗にお化粧をしてセクシーな表情としぐさで踊っているのをみて、私の中の何かの記憶に火がついたのでした^^
日本に帰ってきてからも、その時抱いた強いフラメンコへの思いが忘れられず、会社勤めをしながらフラメンコのお稽古に通いました。
学生時代や、南仏やスペインの青い空の下でバカンスをエンジョイしていた頃とは違い、東京での会社勤め(当時はコンサルタント会社にいました)をする私の日常はすぐにストレスで一杯になり、心と体のバランスを崩していきました。疲れているのに夜はなかなか寝付かれず、自律神経失調気味になりました。
そんな疲れた私でも、フラメンコのお稽古に行くととても快感を覚えたのが今でも忘れられません。踊りの「振り」などはあまりすぐ覚える方ではなかったのですが、それよりも、お稽古の最初に、サパティアードといって、基本の足のステップを何種類も連続でずーっとずーっと踏みならす練習があって、とにかく連続でやるので結構ハードなのですが、それをやっていると頭が真っ白になり、日頃のストレスも将来への不安もくだらない頭の中のお喋りもぜ~んぶ消えて、足を踏みならす事と自分が一体になるというか、それしかない状態になって、何しろ快感だったのです。
私たちの日常は様々な情報に溢れ、頭の中はいつも自分以外の外からの情報ですき間がない程いっぱいになっています。
「頭で考えるのではく、ハートで感じるのよね」
などという言葉すらも、それそのものではく、そういう一つの概念として捉えている方も沢山います。
情報や凝り固まった考えが一杯詰まっていすぎて、自分の中にある真実の答えはおろか、感情さえもダイレクトに感じられなくなっていたりします。
しかし、もしあなたが魂からの喜びを感じ、外から幸せだと「見られる」ことでなく、ほんとうに自分自身が幸せ感や納得感を感じたいのだとしたら、そういった頭の中の情報や概念はほとんどが「ジャマ物」として作用します。
別にあったら生きていけない訳ではないのですが、本来の自分からしたらジャマ物を沢山背負って生きているのですから、重いし「何かが違う感」があるのです。
もしあなたがそんな感じをどこかで感じているとしたら、魂からのサインです。あなたはちゃんと感じ取っているのです。
そして、そこから先は、その魂の願いを今生で生きるのだという明確な意図が必要です。
それが実際にどのような形かは分からなくてもいいのです。実際あなたがアタマで考えているような事とは違うかもしれません。しかし、魂は願うのをやめないし、あなたの人生において、具体的なサインは起こりつづけるでしょう。
そこにヒントがあるのです。そこに、自分自身で気づいていく必要があるのです。
時にはそれを認めるのに大きな勇気が必要かもしれません。現実的な困難を伴う場合もあるでしょう。
しかし、魂の願いはそんな事を突き抜けた永遠の価値を求めています。
何故私があれ程までにフランスに関心を抱いたのか、新卒でちゃんと就職しないで、自分の専攻分野でもなかったフランスに留学するなんて・・と何人にも疑問をもたれました。フラメンコのプロになるわけでもないのに、何故そんなお金と時間を費やし、時には苦しみさえ感じながらお稽古に通ったのか(厳しい先生だったのです^^;) それもこれも、みんな魂がハートを通じて訴えたことに従ったに過ぎないのです。
後になれば皆つじつまが合うのですが、その時は単なる無謀や意味ない行為に思えるかもしれません。でも、ちゃんとその思いを行動に変えてあげる事に意味があるのです。その事の先に、もっと求めていた自分のありようというものが見えてくるからです。一つ一つ、それを生きた先に。
今私たちが生きているこの次元では、物事を変化させていくのにそれ相応の時間を必要とします。何かを意図したとしても、すぐその瞬間に現実が変わるわけではないでしょう。(変化は早まっていますが。)
継続的に実践すること、あるいは日々の心のあり方がその変化をもたらす「強さ」となるでしょう。
それは同時に、この世を生きる上での「歓び」に繋がり、かけがえのない地上での体験となるのだと思います。
まず大切な事は、小さな事でもいい、日常の中に小さな歓びと感謝を見いだすこと。
そこから自らのエネルギーを取り戻し、少しずつ蓄え、その先を進んでいく強さと勇気を得るのです。
それはいずれ、かけがえの無いあなたの今生での体験となって実感されることでしょう。
今から一昔、二昔(?)以上前のおハナシになりますが・・。
フランスで学生だった私は、夏のアルバイトとして南仏で行われる日本凧エクスポジションの案内係の仕事を引き受けました。
南仏のベジエという小さな街で2週間程過ごしながらこのアルバイトに通っていたのですが、その街で当時のフランス人ボーイフレンドと知り合い、バイト期間が終るや否や、彼の誘いでスペインへのバカンスに旅立ちました。(若いって気軽でイイですよね。笑)
旅行といっても、彼のおんぼろシトロエンでひたすら走って走って、南仏から彼が小さい頃よく夏を過ごしたというスペインのアンダルシア地方まで行くという計画でした。
赤茶けた土が剥き出しのスペインの山々や田舎町を沢山通過して、スペインの南部、アンダルシア地方まで到着すると、そこでは夏のお祭りをやっていて、沢山の女の子たちがフランメンコの衣装で踊っていました。
小学生くらいの小さな女の子達も、綺麗にお化粧をしてセクシーな表情としぐさで踊っているのをみて、私の中の何かの記憶に火がついたのでした^^
日本に帰ってきてからも、その時抱いた強いフラメンコへの思いが忘れられず、会社勤めをしながらフラメンコのお稽古に通いました。
学生時代や、南仏やスペインの青い空の下でバカンスをエンジョイしていた頃とは違い、東京での会社勤め(当時はコンサルタント会社にいました)をする私の日常はすぐにストレスで一杯になり、心と体のバランスを崩していきました。疲れているのに夜はなかなか寝付かれず、自律神経失調気味になりました。
そんな疲れた私でも、フラメンコのお稽古に行くととても快感を覚えたのが今でも忘れられません。踊りの「振り」などはあまりすぐ覚える方ではなかったのですが、それよりも、お稽古の最初に、サパティアードといって、基本の足のステップを何種類も連続でずーっとずーっと踏みならす練習があって、とにかく連続でやるので結構ハードなのですが、それをやっていると頭が真っ白になり、日頃のストレスも将来への不安もくだらない頭の中のお喋りもぜ~んぶ消えて、足を踏みならす事と自分が一体になるというか、それしかない状態になって、何しろ快感だったのです。
私たちの日常は様々な情報に溢れ、頭の中はいつも自分以外の外からの情報ですき間がない程いっぱいになっています。
「頭で考えるのではく、ハートで感じるのよね」
などという言葉すらも、それそのものではく、そういう一つの概念として捉えている方も沢山います。
情報や凝り固まった考えが一杯詰まっていすぎて、自分の中にある真実の答えはおろか、感情さえもダイレクトに感じられなくなっていたりします。
しかし、もしあなたが魂からの喜びを感じ、外から幸せだと「見られる」ことでなく、ほんとうに自分自身が幸せ感や納得感を感じたいのだとしたら、そういった頭の中の情報や概念はほとんどが「ジャマ物」として作用します。
別にあったら生きていけない訳ではないのですが、本来の自分からしたらジャマ物を沢山背負って生きているのですから、重いし「何かが違う感」があるのです。
もしあなたがそんな感じをどこかで感じているとしたら、魂からのサインです。あなたはちゃんと感じ取っているのです。
そして、そこから先は、その魂の願いを今生で生きるのだという明確な意図が必要です。
それが実際にどのような形かは分からなくてもいいのです。実際あなたがアタマで考えているような事とは違うかもしれません。しかし、魂は願うのをやめないし、あなたの人生において、具体的なサインは起こりつづけるでしょう。
そこにヒントがあるのです。そこに、自分自身で気づいていく必要があるのです。
時にはそれを認めるのに大きな勇気が必要かもしれません。現実的な困難を伴う場合もあるでしょう。
しかし、魂の願いはそんな事を突き抜けた永遠の価値を求めています。
何故私があれ程までにフランスに関心を抱いたのか、新卒でちゃんと就職しないで、自分の専攻分野でもなかったフランスに留学するなんて・・と何人にも疑問をもたれました。フラメンコのプロになるわけでもないのに、何故そんなお金と時間を費やし、時には苦しみさえ感じながらお稽古に通ったのか(厳しい先生だったのです^^;) それもこれも、みんな魂がハートを通じて訴えたことに従ったに過ぎないのです。
後になれば皆つじつまが合うのですが、その時は単なる無謀や意味ない行為に思えるかもしれません。でも、ちゃんとその思いを行動に変えてあげる事に意味があるのです。その事の先に、もっと求めていた自分のありようというものが見えてくるからです。一つ一つ、それを生きた先に。
今私たちが生きているこの次元では、物事を変化させていくのにそれ相応の時間を必要とします。何かを意図したとしても、すぐその瞬間に現実が変わるわけではないでしょう。(変化は早まっていますが。)
継続的に実践すること、あるいは日々の心のあり方がその変化をもたらす「強さ」となるでしょう。
それは同時に、この世を生きる上での「歓び」に繋がり、かけがえのない地上での体験となるのだと思います。
まず大切な事は、小さな事でもいい、日常の中に小さな歓びと感謝を見いだすこと。
そこから自らのエネルギーを取り戻し、少しずつ蓄え、その先を進んでいく強さと勇気を得るのです。
それはいずれ、かけがえの無いあなたの今生での体験となって実感されることでしょう。