私は元来「言葉」というものが好きで、それを使って話したり、書いたり、交流したりすることがとても好きな方です。
でも最近では、「言葉」というものが、本来それが顕しているもののエネルギーとズレて感じることが多くて、違和感を覚えたりするので、あんまり言葉で伝えたくないと思ったりするのですが、言葉を使わないでブログを書くということもなかなか難しので(笑)、何とかそれらしい言葉で紡いでいこうと思います。
例えば
愛の中に溶ける
といったとき、多くの人は男女の恋愛の絶頂期などを想像するかもしれません。
実際、愛し合う男女が素晴らしいセックスをした時に到達するエクスタシーは、ある意味この世に生きている意味の縮図ともいえるかもしれません。
それは何も、人はセックスによる快感を得るためにこの世に生まれてくる、などと言っているのではなくて、エネルギーレベルで見た体験の話です。
男と女という、対極のエネルギーと肉体を持つ生き物としてこの世に存在し、その陰陽のエネルギーが一つに交わる時に最高のエクスタシー(恍惚感)を感じるのです。
普段の私たちは、一般的にはオトコかオンナ、どちらかの性しかもたず、どこかで不完全と感じています。その二つの性が交わる時、宇宙全体の完全性への入り口をほんの少しだけ味わう、そんな恍惚感なのかもしれません。
その瞬間には、普段いろいろ頭で考えたり、自分の肉体を意識している「自分」という存在さえ消えてなくなるのです。
まさに、「愛の中に陶酔している」状態ですね。
ところでこの「エクスタシー」というのは実は、必ずしも男女の交わりの時だけに感じられるものではなく、エネルギーレベルでは意識の中で自然界と一体となったり、美しい美術作品を見た時にそこに吸い込まれるように感じたり、ジョギングでも陶芸でも踊りでも、何か大好きなことに没頭したりした時に起こっているものなのです。
とりわけこれからの時代、どんどん波動性が優位の世の中になっていきますから、どんどん日常レベルでそのエクスタシーを感じる機会は増えてくるでしょう。
人類全体の意識レベルが低くて、まだ肉体を維持し、「個体や種族を維持する」という本能が最優先だった時代には、このエクスタシーはより「個人の自我」を育てるために使われていたのかもしれません。
とはいえ、かつての時代には、人間はより自然の中で生き、人との繋がりも深くて全体性というものを感じやすかったかもしれないですね。
でも、人類の進化のプロセスにより、そして宇宙全体の進化計画のようなドラマの中にあって、今私たち人類は再び「個」というものの枠を脱ぎ捨てて、全体意識への繋がりを取り戻そうとしています。
私達がわざわざ来たこの世は
男女とか、陰陽とか、昼と夜とか、プラスマイナスなど、すべてにおいて極性をもつ、つまりコントラストを味わえる世界。
そして、今はそこからダイナミックに進化統合を成し遂げようと言うエキサイティングな時代。
この特異な時代の恩恵を逆手にとって、思いっきりエンジョイしてこの二極化の一生を卒業したらどうだろう、と私は思うのです。
何事にも対極があるこの世。
苦しければ絶対にその反対の苦しみのない状態というのを求めるでしょう。
それはもしかしたら、ハンパな苦しみ方ではダメで、その苦しみなり絶望なりが極まった時に、パコ~ンと反転することもよくあること。
それは何も、精神的な探求に限らず、あらゆる自分が好きなことや興味あることや、成し遂げたいこと、その他何でも本音の自分が願っていることです。
あまり意味がないのは、本音の自分ではなく、人から見てどうとか、誰かに評価されるためなどに必死でいくらガンバッテも、どこにも到達できませんので、ご注意ください。
無我夢中
ということは、自己が愛の中に溶けている状態だと思います。
これには、必ずしも相手は要りません。
自分が何かに陶酔している時、自分とその対象物の境目は消えて、大いなる愛の中にともに溶けています。
この世の天国の入り口は、そんな日常的なところにあるのでしょう。
どうぞ、愛に陶酔する、そのエクスタシーの中に溶けていかれますように。
時に思いもかけないような
あらゆる瞬間に、その扉は開かれています。
私は元来「言葉」というものが好きで、それを使って話したり、書いたり、交流したりすることがとても好きな方です。
でも最近では、「言葉」というものが、本来それが顕しているもののエネルギーとズレて感じることが多くて、違和感を覚えたりするので、あんまり言葉で伝えたくないと思ったりするのですが、言葉を使わないでブログを書くということもなかなか難しので(笑)、何とかそれらしい言葉で紡いでいこうと思います。
例えば
愛の中に溶ける
といったとき、多くの人は男女の恋愛の絶頂期などを想像するかもしれません。
実際、愛し合う男女が素晴らしいセックスをした時に到達するエクスタシーは、ある意味この世に生きている意味の縮図ともいえるかもしれません。
それは何も、人はセックスによる快感を得るためにこの世に生まれてくる、などと言っているのではなくて、エネルギーレベルで見た体験の話です。
男と女という、対極のエネルギーと肉体を持つ生き物としてこの世に存在し、その陰陽のエネルギーが一つに交わる時に最高のエクスタシー(恍惚感)を感じるのです。
普段の私たちは、一般的にはオトコかオンナ、どちらかの性しかもたず、どこかで不完全と感じています。その二つの性が交わる時、宇宙全体の完全性への入り口をほんの少しだけ味わう、そんな恍惚感なのかもしれません。
その瞬間には、普段いろいろ頭で考えたり、自分の肉体を意識している「自分」という存在さえ消えてなくなるのです。
まさに、「愛の中に陶酔している」状態ですね。
ところでこの「エクスタシー」というのは実は、必ずしも男女の交わりの時だけに感じられるものではなく、エネルギーレベルでは意識の中で自然界と一体となったり、美しい美術作品を見た時にそこに吸い込まれるように感じたり、ジョギングでも陶芸でも踊りでも、何か大好きなことに没頭したりした時に起こっているものなのです。
とりわけこれからの時代、どんどん波動性が優位の世の中になっていきますから、どんどん日常レベルでそのエクスタシーを感じる機会は増えてくるでしょう。
人類全体の意識レベルが低くて、まだ肉体を維持し、「個体や種族を維持する」という本能が最優先だった時代には、このエクスタシーはより「個人の自我」を育てるために使われていたのかもしれません。
とはいえ、かつての時代には、人間はより自然の中で生き、人との繋がりも深くて全体性というものを感じやすかったかもしれないですね。
でも、人類の進化のプロセスにより、そして宇宙全体の進化計画のようなドラマの中にあって、今私たち人類は再び「個」というものの枠を脱ぎ捨てて、全体意識への繋がりを取り戻そうとしています。
私達がわざわざ来たこの世は
男女とか、陰陽とか、昼と夜とか、プラスマイナスなど、すべてにおいて極性をもつ、つまりコントラストを味わえる世界。
そして、今はそこからダイナミックに進化統合を成し遂げようと言うエキサイティングな時代。
この特異な時代の恩恵を逆手にとって、思いっきりエンジョイしてこの二極化の一生を卒業したらどうだろう、と私は思うのです。
何事にも対極があるこの世。
苦しければ絶対にその反対の苦しみのない状態というのを求めるでしょう。
それはもしかしたら、ハンパな苦しみ方ではダメで、その苦しみなり絶望なりが極まった時に、パコ~ンと反転することもよくあること。
それは何も、精神的な探求に限らず、あらゆる自分が好きなことや興味あることや、成し遂げたいこと、その他何でも本音の自分が願っていることです。
あまり意味がないのは、本音の自分ではなく、人から見てどうとか、誰かに評価されるためなどに必死でいくらガンバッテも、どこにも到達できませんので、ご注意ください。
無我夢中
ということは、自己が愛の中に溶けている状態だと思います。
これには、必ずしも相手は要りません。
自分が何かに陶酔している時、自分とその対象物の境目は消えて、大いなる愛の中にともに溶けています。
この世の天国の入り口は、そんな日常的なところにあるのでしょう。
どうぞ、愛に陶酔する、そのエクスタシーの中に溶けていかれますように。
時に思いもかけないような
あらゆる瞬間に、その扉は開かれています。