人は、生まれたばかりの時は神さまに近くて、あらゆるものを受け入れて、あらゆるものを信頼して愛の中にいます。
でも、成長するにつれて親や家族、身の回りの環境により、どんどんどんどん肉体や名前を含めた、「自分とはこういうヒト」という小さな限界の中に自分を入れ始めて、大人になる頃にはそれにがんじがらめになっている人がほとんどです。
トラウマやカルマというものも、意識の中でそれらを採用して、そしてそこから自由になったり、それがあるが故に他の人との関係性で学んだり解放したりします。その事に良いも悪いもなくて、それを選んでいるね、ということだけなのです。
どちらにしても、その制限が無い(ワンネスの)ところでは体験できない事を体験しています。
だから、そういう中で生きていてはダメとか、悪いということでもなく、そういう制限があったらこうだね、なければこうだね、という事を味わう楽しさや気持ちよさを知りたいのではないでしょうか。
この世には、いろんな考え方をもった、もう本当に多種多様な人間が存在しています。「スピリチュアルな人」といってもしかりで、多種多様な「スピリチュアルな人」がいます。
私も昔は、どれが正しくて、どれが良くて、何が真理なのか、、といった事を追い求めていたように思います。
けれど、一番大切なことは、自分自身がどのように感じて、どのような体験をするのか、という事。
自分にとって魅力的だったり、興味をひかれたり、ご縁を感じたり、実践してみたいと思ったり。頭で考えるのではなくて、自分にとっての「いい感じ」、その真実を選びとっていくことが大切です。
その道というものは世の中に本当に沢山あって、あらゆる精神的な教えやテクニックが誰かの役にたつから存在しているのだと思います。
だから、あの教えやテクニックのここは悪いとか、ここが劣っているとか批判する必要もなく、ただ自分にとって良い感覚のものを感謝して行っていけばいいと思います。
そしてまた、本当は、この世の中に存在しているあらゆるものは、実はあなたに愛を伝えているのです。
それは、人間が造った人工的なものからは感じにくいかもしれませんが(でも本当はそれらからも愛が発せられているのです)、自然界の花や木や海や空、土といったものからは、私たちは容易に全体性の愛を感じることができます。
私が瞑想というものを初めて体験したのは20年程前で、アーユルベーダの教えのクラスでした。そこで瞑想の前に、食べ物を真に味わって食べるという実験があり、生徒は各自持参した果物でこの実験を行いました。
私は自分の持ってきたキーウィの切り口をまず数分感真剣に見て
(こんなに瑞々しくて、キレイな模様だなって気づいてなかった!)
その後口に含んで目を閉じて何も喋らずじっくりとそれを味わいます。
(甘くて酸っぱい!けれどこんなに複雑な味の変化をするとは知らなかった!)
その後初めておこなった瞑想は、決して集中できたわけではないけれど、何だか普段の生活とは違う不思議に安らいだ深い世界があることを感じたように記憶しています。
魂は永遠だけれど、この世に生きている時にしか出来ないことがあります。
(当たり前ですが)
この世には、憎しみも怒りも不安も、対立も病気も戦争も天災もさまざまな恐ろしい事件なども存在するけれど、でも、私たちはその中でさえ常に愛に根ざして生きることができる。その中にあって愛に基づいたあり方を生きることができます。
何故ならば、この世のあらゆるものは、本当にはあなたに愛を伝えているからです。
なのに私たち現代人はとりわけ忙しく、この世に溢れるあらゆる自分以外の情報の価値のみを採用して、自分自身が何かということには相当におろそかになって、自分がお留守になって、迷ったり気落ちしたり劣等感を持ったり苦しんだりしています。
ものすごい愛と叡智の泉が自分の中にあるのに・・。
そこに気がつかないまま、肉体の死を迎えるのはとても残念なことです。
言葉にするととても陳腐な感じがしてしまうのですが、自分の中にそんなにも愛が溢れていることを(例外の人はいません)、ぜひとも再発見して欲しいのです。
外側に自分を埋めてくれるものを追い求めても、その困窮は終ることがなく、答えはないです。
ただ一つ、自分は誰かということを知ることだと思います。
その素晴らしい問いは、必ずあなたに無条件の至福をもたらします。
愛をたくさん、たくさんこめて
そのことを心からお伝えしたいと思います。
4/29(水・祝)第七回愛の魔法学校
若返りの美ストレッチ&チャクラヨガの巻
人は、生まれたばかりの時は神さまに近くて、あらゆるものを受け入れて、あらゆるものを信頼して愛の中にいます。
でも、成長するにつれて親や家族、身の回りの環境により、どんどんどんどん肉体や名前を含めた、「自分とはこういうヒト」という小さな限界の中に自分を入れ始めて、大人になる頃にはそれにがんじがらめになっている人がほとんどです。
トラウマやカルマというものも、意識の中でそれらを採用して、そしてそこから自由になったり、それがあるが故に他の人との関係性で学んだり解放したりします。その事に良いも悪いもなくて、それを選んでいるね、ということだけなのです。
どちらにしても、その制限が無い(ワンネスの)ところでは体験できない事を体験しています。
だから、そういう中で生きていてはダメとか、悪いということでもなく、そういう制限があったらこうだね、なければこうだね、という事を味わう楽しさや気持ちよさを知りたいのではないでしょうか。
この世には、いろんな考え方をもった、もう本当に多種多様な人間が存在しています。「スピリチュアルな人」といってもしかりで、多種多様な「スピリチュアルな人」がいます。
私も昔は、どれが正しくて、どれが良くて、何が真理なのか、、といった事を追い求めていたように思います。
けれど、一番大切なことは、自分自身がどのように感じて、どのような体験をするのか、という事。
自分にとって魅力的だったり、興味をひかれたり、ご縁を感じたり、実践してみたいと思ったり。頭で考えるのではなくて、自分にとっての「いい感じ」、その真実を選びとっていくことが大切です。
その道というものは世の中に本当に沢山あって、あらゆる精神的な教えやテクニックが誰かの役にたつから存在しているのだと思います。
だから、あの教えやテクニックのここは悪いとか、ここが劣っているとか批判する必要もなく、ただ自分にとって良い感覚のものを感謝して行っていけばいいと思います。
そしてまた、本当は、この世の中に存在しているあらゆるものは、実はあなたに愛を伝えているのです。
それは、人間が造った人工的なものからは感じにくいかもしれませんが(でも本当はそれらからも愛が発せられているのです)、自然界の花や木や海や空、土といったものからは、私たちは容易に全体性の愛を感じることができます。
私が瞑想というものを初めて体験したのは20年程前で、アーユルベーダの教えのクラスでした。そこで瞑想の前に、食べ物を真に味わって食べるという実験があり、生徒は各自持参した果物でこの実験を行いました。
私は自分の持ってきたキーウィの切り口をまず数分感真剣に見て
(こんなに瑞々しくて、キレイな模様だなって気づいてなかった!)
その後口に含んで目を閉じて何も喋らずじっくりとそれを味わいます。
(甘くて酸っぱい!けれどこんなに複雑な味の変化をするとは知らなかった!)
その後初めておこなった瞑想は、決して集中できたわけではないけれど、何だか普段の生活とは違う不思議に安らいだ深い世界があることを感じたように記憶しています。
魂は永遠だけれど、この世に生きている時にしか出来ないことがあります。
(当たり前ですが)
この世には、憎しみも怒りも不安も、対立も病気も戦争も天災もさまざまな恐ろしい事件なども存在するけれど、でも、私たちはその中でさえ常に愛に根ざして生きることができる。その中にあって愛に基づいたあり方を生きることができます。
何故ならば、この世のあらゆるものは、本当にはあなたに愛を伝えているからです。
なのに私たち現代人はとりわけ忙しく、この世に溢れるあらゆる自分以外の情報の価値のみを採用して、自分自身が何かということには相当におろそかになって、自分がお留守になって、迷ったり気落ちしたり劣等感を持ったり苦しんだりしています。
ものすごい愛と叡智の泉が自分の中にあるのに・・。
そこに気がつかないまま、肉体の死を迎えるのはとても残念なことです。
言葉にするととても陳腐な感じがしてしまうのですが、自分の中にそんなにも愛が溢れていることを(例外の人はいません)、ぜひとも再発見して欲しいのです。
外側に自分を埋めてくれるものを追い求めても、その困窮は終ることがなく、答えはないです。
ただ一つ、自分は誰かということを知ることだと思います。
その素晴らしい問いは、必ずあなたに無条件の至福をもたらします。
愛をたくさん、たくさんこめて
そのことを心からお伝えしたいと思います。
4/29(水・祝)第七回愛の魔法学校
若返りの美ストレッチ&チャクラヨガの巻