犠牲者に哀悼の意を表すため照明の消されたエッフェル塔
政治や宗教、時事問題などへの痛烈な風刺画で有名なフランスの週刊誌、シャルリー・エブドの本社が、イスラム過激派の兄弟2人によって銃撃され、社長や警官を含む10人が殺害されました。
犯人は今だ逃走中(9日現在)、パリは厳戒態勢で、フランス中が大変なことになっています。
コレ、遠い国のお話って思うかもしれないけど、日本だっていつ似たような事態にならないとも限らないのです。
(相手がイスラム国とは限りません。)
世界中のあちこちで、対立・対決のムードが掻き立てられています。。
どこまでヤラせで、どこまで自然発生か
(人間はいろんなモノの影響を受けているので、明確な線引きなんかできっこないですが)分からないけれど、
私はつくづく感じていることがあります。
それは、この地球上に
「自分の信じていることは、絶対に正しい!」
と心底思っている人がどれだけ多いか、という事です。
そして、それらは、本当にそうなんでしょうか?
或は、もし本当にはそれらは正しくないのならば、絶対的に正しい唯一の事というが、この世にあるのでしょうか?
フランス人達は、「表現の自由」ということを、至上命令のように大切にしています。それはとても素晴らしいことだと私も思います。
シャルリー・エブド社の社長は、これまでにも何度もイスラム過激派から殺害予告を受けていたけれど、自分は「表現の自由」を徹底して貫くとして、警察の警備を受けながら今まで通り痛烈な批判や風刺を描いた週刊誌を出版し続けていたといいます。
そして、イスラム過激派が行っている残虐なテロ活動に、微塵も情状酌量の余地はないと思います。
フランス市民たちは怒っていて、
Je sui Charlie(私はシャルリー(の味方))
というプラカードを掲げて抗議し、エッフェル塔の照明を消して哀悼の意を表しています。
感情的にはもっともだ、と感じます。
今回亡くなった方々が、殺害されて良い理由なんて一つも無いと思います。
でも、別の視点を持ってみたらどうでしょう。
イスラム経はもともと平和を愛する宗教。
それを、一部の勘違いした、過激な思想と不満と攻撃性の塊のようになった人達が自らを「イスラム国」と称して、とんでもない行為を展開している。
こんなとんでもない精神状態になった人達は、いわばノーマルな精神状態とは言えないわけです。そのノーマルでない、異常な精神状態の人達が信じている宗教(本質のものではないわけですが)や信念に対して
「オラオラ、おまえらの信じているモノは、こんなに可笑しいんだぜ~、滑稽なんだぜ~」
とやるのだから
(表現の自由という名のもとに?)
こんなコトにもなってしまうでしょう。
だからって、殺してもいいなんて言ってないですが。
あげくの果てに、フランス人全体のイスラム民族に対する反目はさらに高まってしまうでしょう。
さて、皆さん、この感じ、最近どこかにも無かったでしょうか?
そうそう
北朝鮮の国主を面白可笑しく風刺したアメリカ映画を、オバマさんが一旦上映中止にし、その後で
「上映中止にした事を後悔している」
とか言って、また上映しましたよね。
それでさらに対立ムード盛り上げてます。
それって、現代風正義に基づいた「表現の自由」を貫くことなんでしょうか?
単刀直入に言うならば、
何故わざわざ「キチガイに刃物」で挑発するのでしょうか。
もしかしたらその背景には、もっと大きな思惑があるのかも・・と思いませんか?
遠からず、似たような事が日本でも起こるのかもしれません。
(これは、予言では無いし、起こって欲しくなんか無いけれど)
「戦いたい」人たち、いえ、「民衆を戦わせたい」人たちの
感情的な挑発に乗ってはならないと思います。
この世は、ありとあらゆる考え方や、存在価値の
「多様性」
から学ぶところ。
人間同士だからって、まだまだ到底理解出来ない同士が隣り合って暮らしている、この地球はとんでもなくすごい場所なのです。
日本人の感性と、韓国人や中国人の感性も考え方も全然違うでしょう。
到底分かり合えない部分があり、そのトラウマカルマの積み重ねが
今のこの現状なのでしょう。
そうならば、またまたこれを積み重ねるのでしょうか?
「おめーら間違ってんだよ、狂ってんだよ、こっちの言い分がどれだけ正しいか、力で分からせてやるから見てろよ!」
と言って、また戦うのでしょうか?
まだそんな事をしたいのでしょうか?
この期に及んで今だそんな選択肢しか、人類は持っていないと信じ続けるのでしょうか?
命を懸ける程ものが、信念であれ、何であれ
あるのは素晴らしい事だと思います。
だけれども、今、この時代に、命を懸ける対象をこれまでの世紀と同じところに置くことが、私たちの魂が願っていることでしょうか。
何に命を懸けるのか
命を懸ける対象を、見誤ってはならないと思います。
この文章は、シャルリー・エブド社の信念を批判するものでは決してありません。
むしろ、身を以てこの問題を世界に示してくれた勇気を賞賛するし、多くのフランス国民が、
「あの雑誌から政治や世界情勢や宗教の問題などを学んだ」
と言っているように、大きな存在価値があると思います。
亡くなった方々の魂のご冥福を心から祈ります。
だからこそ、そんな彼らの思いを無駄にしないためにも
私たちは、何に命を懸けたいのか。
何も考えず、ただコントロールされるままに、大きなもの、長いものに巻かれて生きていくのか。
そこをもう一度問い直す必要があると思います。
もっと自分を知り、多様性を受け入れようとする事の重要さ。
この貴重な地球の時代に
そんな叫びにも似た思いが、私の内側から湧いてきます。
政治や宗教、時事問題などへの痛烈な風刺画で有名なフランスの週刊誌、シャルリー・エブドの本社が、イスラム過激派の兄弟2人によって銃撃され、社長や警官を含む10人が殺害されました。
犯人は今だ逃走中(9日現在)、パリは厳戒態勢で、フランス中が大変なことになっています。
コレ、遠い国のお話って思うかもしれないけど、日本だっていつ似たような事態にならないとも限らないのです。
(相手がイスラム国とは限りません。)
世界中のあちこちで、対立・対決のムードが掻き立てられています。。
どこまでヤラせで、どこまで自然発生か
(人間はいろんなモノの影響を受けているので、明確な線引きなんかできっこないですが)分からないけれど、
私はつくづく感じていることがあります。
それは、この地球上に
「自分の信じていることは、絶対に正しい!」
と心底思っている人がどれだけ多いか、という事です。
そして、それらは、本当にそうなんでしょうか?
或は、もし本当にはそれらは正しくないのならば、絶対的に正しい唯一の事というが、この世にあるのでしょうか?
フランス人達は、「表現の自由」ということを、至上命令のように大切にしています。それはとても素晴らしいことだと私も思います。
シャルリー・エブド社の社長は、これまでにも何度もイスラム過激派から殺害予告を受けていたけれど、自分は「表現の自由」を徹底して貫くとして、警察の警備を受けながら今まで通り痛烈な批判や風刺を描いた週刊誌を出版し続けていたといいます。
そして、イスラム過激派が行っている残虐なテロ活動に、微塵も情状酌量の余地はないと思います。
フランス市民たちは怒っていて、
Je sui Charlie(私はシャルリー(の味方))
というプラカードを掲げて抗議し、エッフェル塔の照明を消して哀悼の意を表しています。
感情的にはもっともだ、と感じます。
今回亡くなった方々が、殺害されて良い理由なんて一つも無いと思います。
でも、別の視点を持ってみたらどうでしょう。
イスラム経はもともと平和を愛する宗教。
それを、一部の勘違いした、過激な思想と不満と攻撃性の塊のようになった人達が自らを「イスラム国」と称して、とんでもない行為を展開している。
こんなとんでもない精神状態になった人達は、いわばノーマルな精神状態とは言えないわけです。そのノーマルでない、異常な精神状態の人達が信じている宗教(本質のものではないわけですが)や信念に対して
「オラオラ、おまえらの信じているモノは、こんなに可笑しいんだぜ~、滑稽なんだぜ~」
とやるのだから
(表現の自由という名のもとに?)
こんなコトにもなってしまうでしょう。
だからって、殺してもいいなんて言ってないですが。
あげくの果てに、フランス人全体のイスラム民族に対する反目はさらに高まってしまうでしょう。
さて、皆さん、この感じ、最近どこかにも無かったでしょうか?
そうそう
北朝鮮の国主を面白可笑しく風刺したアメリカ映画を、オバマさんが一旦上映中止にし、その後で
「上映中止にした事を後悔している」
とか言って、また上映しましたよね。
それでさらに対立ムード盛り上げてます。
それって、現代風正義に基づいた「表現の自由」を貫くことなんでしょうか?
単刀直入に言うならば、
何故わざわざ「キチガイに刃物」で挑発するのでしょうか。
もしかしたらその背景には、もっと大きな思惑があるのかも・・と思いませんか?
遠からず、似たような事が日本でも起こるのかもしれません。
(これは、予言では無いし、起こって欲しくなんか無いけれど)
「戦いたい」人たち、いえ、「民衆を戦わせたい」人たちの
感情的な挑発に乗ってはならないと思います。
この世は、ありとあらゆる考え方や、存在価値の
「多様性」
から学ぶところ。
人間同士だからって、まだまだ到底理解出来ない同士が隣り合って暮らしている、この地球はとんでもなくすごい場所なのです。
日本人の感性と、韓国人や中国人の感性も考え方も全然違うでしょう。
到底分かり合えない部分があり、そのトラウマカルマの積み重ねが
今のこの現状なのでしょう。
そうならば、またまたこれを積み重ねるのでしょうか?
「おめーら間違ってんだよ、狂ってんだよ、こっちの言い分がどれだけ正しいか、力で分からせてやるから見てろよ!」
と言って、また戦うのでしょうか?
まだそんな事をしたいのでしょうか?
この期に及んで今だそんな選択肢しか、人類は持っていないと信じ続けるのでしょうか?
命を懸ける程ものが、信念であれ、何であれ
あるのは素晴らしい事だと思います。
だけれども、今、この時代に、命を懸ける対象をこれまでの世紀と同じところに置くことが、私たちの魂が願っていることでしょうか。
何に命を懸けるのか
命を懸ける対象を、見誤ってはならないと思います。
この文章は、シャルリー・エブド社の信念を批判するものでは決してありません。
むしろ、身を以てこの問題を世界に示してくれた勇気を賞賛するし、多くのフランス国民が、
「あの雑誌から政治や世界情勢や宗教の問題などを学んだ」
と言っているように、大きな存在価値があると思います。
亡くなった方々の魂のご冥福を心から祈ります。
だからこそ、そんな彼らの思いを無駄にしないためにも
私たちは、何に命を懸けたいのか。
何も考えず、ただコントロールされるままに、大きなもの、長いものに巻かれて生きていくのか。
そこをもう一度問い直す必要があると思います。
もっと自分を知り、多様性を受け入れようとする事の重要さ。
この貴重な地球の時代に
そんな叫びにも似た思いが、私の内側から湧いてきます。
“”Je sui Charlie””(私はシャルリの味方!)というプラカードを掲げて抗議するフランス市民たち””Je sui Charlie””(私はシャルリの味方!)というプラカードを掲げて抗議するフランス市民たち