お盆の期間は、あまり意識しなくともやはり空気中にどこか霊的に濃い波動を感じる。
ご先祖様は別に物理的に存在しているのではないのだけれど、やはり空気を動かすような、物理的空間にも影響を及ぼすような意識存在ではある。

このところ改めて、人の魂って何でわざわざこんな地上のような、病気や戦争や不自由が沢山あって、制限の多い地上のような所に繰り返し生まれてくるんだろうなぁ、、なんて考えていました。

だって、もともとは何の制限もなく、何の分離もない、すべてがあってかつ完璧な空の静寂である世界とともにあったのに、、、って。

その実なるリアルな世界から、この仮に分離した世界へやってきている。

そして、誰しもその絶対的平安の場所へ帰還すべく生きている。
知っていても知らなくても、誰一人の例外もなく・・。

還るためにやってくるなら、ここにいる理由って何なの?
って思いませんか?

分離という幻想を体験するため

改めて創造主たる自分に気づくため

気づきや学びというプロセスを体験するため

と、師は答えてくれるかもしれない。

わざわざ分離してね

制限を味わってね

その分離の寂しさや孤独感

それが生み出す多種多様な対立や制限による苦しみを

時には七転八倒するような苦しみを

私たち人類は味わいたいとしか思えないですよね。

そのためにここに来ている。

もう充分と、本当に思えるまで、それは続くのだ。

何という果敢な挑戦なのだろう。

しかも、それがさらに凄いと思うのは

人類がこれまで体験した苦しみのほとんどが

美しさに昇華されること。

それはしばしば、人の心の善なる部分を引き出して

その心の琴線に触れる表現としての伝承であったり

文章だったり、絵画であったり、音楽であったり

近年では映像だったりの芸術として表現されるかもしれない。

どんなに悲惨な出来事の中にも、必ず人の心というものを通して伝わっていくとき

そこに「美しい」要素が隠れている、ないしはそこから学びとることの美しさが潜んでいる事の方が圧倒的に多いと思う。

そのような時、人類全体としてその美しさを、

その「苦しみという妄想」をクリエイトした中にある美しさを

私たちは手に入れているのかもしれない。

私たちが、この「苦しみという妄想」を手放し

完全なる平安へと帰還していくとき

この美しい体験というものは、まるで無かったことのように消えうせるのだろうか。

私にはそうは感じられない。

意味も意義もなくてもよい。

しかし、美しさという事の中には意味もなく圧倒的な力があって

そこには無限の中にさらに可能性を広げるような(そんな文章は表現としておかしいけれど)

そのようなパワーを持ちうるように思う。

もちろんこれも、まったくの妄想かもしれない。

けれども、

「苦しみという妄想」

にはそれ程までの美しさが潜んでいて

それは人々の心を掴んで離さないのだ。

あなたも私もすぐにソレにやられてしまう。

ヤラれてしまうことに気づいていなければならない。

何の意味もなくここにいるのではない。

しかし、何かしなければならない事があるのでは本当はない。

ただ

目覚めて

美を味わうのだ。

ありとあらゆる種類の

苦しみが創り出す美から

聖なる快感までを味わえるこの場所で

という苦しみを

その美しさを

味わい尽くすまで。

 

 

アメブロも日々更新中!

 

お盆の期間は、あまり意識しなくともやはり空気中にどこか霊的に濃い波動を感じる。
ご先祖様は別に物理的に存在しているのではないのだけれど、やはり空気を動かすような、物理的空間にも影響を及ぼすような意識存在ではある。

このところ改めて、人の魂って何でわざわざこんな地上のような、病気や戦争や不自由が沢山あって、制限の多い地上のような所に繰り返し生まれてくるんだろうなぁ、、なんて考えていました。

だって、もともとは何の制限もなく、何の分離もない、すべてがあってかつ完璧な空の静寂である世界とともにあったのに、、、って。

その実なるリアルな世界から、この仮に分離した世界へやってきている。

そして、誰しもその絶対的平安の場所へ帰還すべく生きている。
知っていても知らなくても、誰一人の例外もなく・・。

還るためにやってくるなら、ここにいる理由って何なの?
って思いませんか?

分離という幻想を体験するため

改めて創造主たる自分に気づくため

気づきや学びというプロセスを体験するため

と、師は答えてくれるかもしれない。

わざわざ分離してね

制限を味わってね

その分離の寂しさや孤独感

それが生み出す多種多様な対立や制限による苦しみを

時には七転八倒するような苦しみを

私たち人類は味わいたいとしか思えないですよね。

そのためにここに来ている。

もう充分と、本当に思えるまで、それは続くのだ。

何という果敢な挑戦なのだろう。

しかも、それがさらに凄いと思うのは

人類がこれまで体験した苦しみのほとんどが

美しさに昇華されること。

それはしばしば、人の心の善なる部分を引き出して

その心の琴線に触れる表現としての伝承であったり

文章だったり、絵画であったり、音楽であったり

近年では映像だったりの芸術として表現されるかもしれない。

どんなに悲惨な出来事の中にも、必ず人の心というものを通して伝わっていくとき

そこに「美しい」要素が隠れている、ないしはそこから学びとることの美しさが潜んでいる事の方が圧倒的に多いと思う。

そのような時、人類全体としてその美しさを、

その「苦しみという妄想」をクリエイトした中にある美しさを

私たちは手に入れているのかもしれない。

私たちが、この「苦しみという妄想」を手放し

完全なる平安へと帰還していくとき

この美しい体験というものは、まるで無かったことのように消えうせるのだろうか。

私にはそうは感じられない。

意味も意義もなくてもよい。

しかし、美しさという事の中には意味もなく圧倒的な力があって

そこには無限の中にさらに可能性を広げるような(そんな文章は表現としておかしいけれど)

そのようなパワーを持ちうるように思う。

もちろんこれも、まったくの妄想かもしれない。

けれども、

「苦しみという妄想」

にはそれ程までの美しさが潜んでいて

それは人々の心を掴んで離さないのだ。

あなたも私もすぐにソレにやられてしまう。

ヤラれてしまうことに気づいていなければならない。

何の意味もなくここにいるのではない。

しかし、何かしなければならない事があるのでは本当はない。

ただ

目覚めて

美を味わうのだ。

ありとあらゆる種類の

苦しみが創り出す美から

聖なる快感までを味わえるこの場所で

という苦しみを

その美しさを

味わい尽くすまで。

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