1986年4月26日。チェルノブイリ原発事故は起こりました。

私は先月、三鷹の沙羅舎という場所で、「アレクセイと泉」という映画を見ました。2002年に撮られた映画で、あの事故で被災したベラルーシ共和国のある村に実際に住み続けた55人の老人達とアレクセイという一人若者の暮らしを描いています。その村には、何故か放射能にまったく汚染されていない泉があります。

この村に住み続けたこのお年寄り達と、一人の若者の、美しい映画です。カメラは、ただひたすら、この住人たちの時を追っています。
ドキュメンタリー映画のようでもなく、何かを声高に主張しているのでもない。でも、だからこそもの凄い美しさとリアリティーをもって私たちの「今」に、ここに「存在する」という、「生きる」という事の意味を問いかけてきます。

その静かな迫力というものに私は圧倒され、見終わった後に何か言葉を失ったかのように感じました。

私たちは、どれだけの勘違いをしていたのだろう。
何という身勝手さだったのだろう。
人間は自然の中に生かされているなんて、分かっているようで少しも分かってはいないのだ。そして、本当に自然に生かされていると知っているこんな宝石のような人たちに、その犠牲をおしやっているのだ。

映画の上映の後、幸いにもこの映画を撮った本橋成一監督の話を聞くことができました。写真家でもある本橋氏は、チェルノブイリ事故後はじめて訪れた時は、二度と来ることもないだろうと思ったこの悲しみに大地に、その三ヶ月後から、何度も何度も足を運ぶようになり、2つの映画まで撮ってしまったそうです。そんないろいろなエピソードも伺えました。

この村に残っている住人たちに、政府の役人は繰り返し繰り返しこの村を離れるように伝えにきたそうです。その度にアレクセイのお母さんは言い返していたそうです。

「離れるって言ったって、うちには馬もいるし、ブタも、がちょうも沢山いるんだよ。鳥たちもいるし、外には沢山の木も草も花も、畑の生き物も、みんな一緒に生きているんだよ。そういうのを皆一緒に連れて行ってくれるのかい?連れてってもいいんだったらあたしは行くけど、そうじゃないなら嫌だね」と。

もう一つの映画、「ナージャの村」も是非みたいと思います。

監督いわく、ナージャは今では結婚し、子供も生まれたそうです。その子の健康が、これからどうなっていくのかは、誰にも分かりません。

アレクセイは当時34歳ですから、今では60歳になっています。この村には、今では2世帯のみが残っているそうです。

映画の中に、泉の木枠を村人たちが取り替える大作業のシーンがあります。今回が最後の取り替えになるだろうことを、心の中で悲しみながら明るく作業するのです。
本当なら、今頃、彼らの息子達や孫達がこの作業を受け継いでいたでしょうに。
皆そうしたかっただろうに、、と思うと、私は今も涙がこぼれます。

写真家ならではの美しい映像が心に染み入ったまま、何だか言葉を失った状態で家に帰りました。

この映画の中に出てくる泉が汚染されていないこと。村人たちは、ここの水は100年前の水だから汚染なんかされていないのさ、と当たり前のような顔をして言うのだそうです。
そうした古い古い時代の水は、わりと多くの場所に存在しているとも言います。
でも、いつかはこのような泉をも、私たちは汚してしまうのでしょうか。

でも、本当には、どうなんでしょう。もしかしたら、汚染されていない以上の清らかな、聖なるパワーを秘めているのかもしれません。こんな美しい人たちに、神様が与えた泉なのかもしれません。
映画の中では、そうした事については、何も語られていません。

機会があったら、絶対に、絶対に、観てください。

坂本龍一氏のピアノが、この映画をより一層、美しすぎて悲しい、切ないものにしています。

レア音源/アレクセイと泉(piano Ver.):坂本龍一
http://youtu.be/gb6-CGP1sSw

アメブロも日々更新中!

1986年4月26日。チェルノブイリ原発事故は起こりました。

私は先月、三鷹の沙羅舎という場所で、「アレクセイと泉」という映画を見ました。2002年に撮られた映画で、あの事故で被災したベラルーシ共和国のある村に実際に住み続けた55人の老人達とアレクセイという一人若者の暮らしを描いています。その村には、何故か放射能にまったく汚染されていない泉があります。

この村に住み続けたこのお年寄り達と、一人の若者の、美しい映画です。カメラは、ただひたすら、この住人たちの時を追っています。
ドキュメンタリー映画のようでもなく、何かを声高に主張しているのでもない。でも、だからこそもの凄い美しさとリアリティーをもって私たちの「今」に、ここに「存在する」という、「生きる」という事の意味を問いかけてきます。

その静かな迫力というものに私は圧倒され、見終わった後に何か言葉を失ったかのように感じました。

私たちは、どれだけの勘違いをしていたのだろう。
何という身勝手さだったのだろう。
人間は自然の中に生かされているなんて、分かっているようで少しも分かってはいないのだ。そして、本当に自然に生かされていると知っているこんな宝石のような人たちに、その犠牲をおしやっているのだ。

映画の上映の後、幸いにもこの映画を撮った本橋成一監督の話を聞くことができました。写真家でもある本橋氏は、チェルノブイリ事故後はじめて訪れた時は、二度と来ることもないだろうと思ったこの悲しみに大地に、その三ヶ月後から、何度も何度も足を運ぶようになり、2つの映画まで撮ってしまったそうです。そんないろいろなエピソードも伺えました。

この村に残っている住人たちに、政府の役人は繰り返し繰り返しこの村を離れるように伝えにきたそうです。その度にアレクセイのお母さんは言い返していたそうです。

「離れるって言ったって、うちには馬もいるし、ブタも、がちょうも沢山いるんだよ。鳥たちもいるし、外には沢山の木も草も花も、畑の生き物も、みんな一緒に生きているんだよ。そういうのを皆一緒に連れて行ってくれるのかい?連れてってもいいんだったらあたしは行くけど、そうじゃないなら嫌だね」と。

もう一つの映画、「ナージャの村」も是非みたいと思います。

監督いわく、ナージャは今では結婚し、子供も生まれたそうです。その子の健康が、これからどうなっていくのかは、誰にも分かりません。

アレクセイは当時34歳ですから、今では60歳になっています。この村には、今では2世帯のみが残っているそうです。

映画の中に、泉の木枠を村人たちが取り替える大作業のシーンがあります。今回が最後の取り替えになるだろうことを、心の中で悲しみながら明るく作業するのです。
本当なら、今頃、彼らの息子達や孫達がこの作業を受け継いでいたでしょうに。
皆そうしたかっただろうに、、と思うと、私は今も涙がこぼれます。

写真家ならではの美しい映像が心に染み入ったまま、何だか言葉を失った状態で家に帰りました。

この映画の中に出てくる泉が汚染されていないこと。村人たちは、ここの水は100年前の水だから汚染なんかされていないのさ、と当たり前のような顔をして言うのだそうです。
そうした古い古い時代の水は、わりと多くの場所に存在しているとも言います。
でも、いつかはこのような泉をも、私たちは汚してしまうのでしょうか。

でも、本当には、どうなんでしょう。もしかしたら、汚染されていない以上の清らかな、聖なるパワーを秘めているのかもしれません。こんな美しい人たちに、神様が与えた泉なのかもしれません。
映画の中では、そうした事については、何も語られていません。

機会があったら、絶対に、絶対に、観てください。

坂本龍一氏のピアノが、この映画をより一層、美しすぎて悲しい、切ないものにしています。

レア音源/アレクセイと泉(piano Ver.):坂本龍一
http://youtu.be/gb6-CGP1sSw

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