私は、人を深く愛することができるということは、一つの大いなる能力だと思っています。
それが永遠には続かない「恋愛」という愛だとしても、そして、それは普遍的な愛からしたら、勘違いにも属するものだとしても。
時には、それは「別れ」という形を伴うように見えるとしても
それでも
愛し続けることはできる。
執着の化身となった愛だっていい
執着の極地まで執着し尽くしたなら
いずれ執着は手放すことができる
そこには、純粋な愛だけが残る。
だからこそ
それは、どれも、とても大きな、大きな、生命エネルギーであり、もしもそれを純粋に持ち続ける人がいるとしたら、それは大いなる能力であると思うのです。
皆、ちょっと大人になって分別がつくと、
すぐに傷つくからとか、安定したいからとか、疲れたからとか、自分にはもう関係ないからとか、或は損得とか、そういう事で頭に言い訳をいっぱい詰め込み、愛することを辞めてしまう。
それは、恐らく、エネルギーの枯渇状態からくる保身であって、天とも地とも、切り離されてしまったからなのでしょう。
もしも、人が、天からも大地からも、人々からも、溢れ出るエネルギーを受け取り続けることが出来たとしたら、人間は、愛することを辞めないでしょう。
なぜって
人も自然も、本当は愛そのものから出来ている。
愛そのもので他のものと繋がっている。
それを交流することなしに、生きていることなんて
本当は
できっこないのだから・・。
そんな事なしで、この世で生きていこうなんて
思ってやってきた魂は、一つだってないのだから・・・。
誰もがハートの奥底に持っている、
その覆い隠されたパワーを爆発させたいと
本当はあなたも私も
願っているのだから・・。
私は、人を深く愛することができるということは、一つの大いなる能力だと思っています。
それが永遠には続かない「恋愛」という愛だとしても、そして、それは普遍的な愛からしたら、勘違いにも属するものだとしても。
時には、それは「別れ」という形を伴うように見えるとしても
それでも
愛し続けることはできる。
執着の化身となった愛だっていい
執着の極地まで執着し尽くしたなら
いずれ執着は手放すことができる
そこには、純粋な愛だけが残る。
だからこそ
それは、どれも、とても大きな、大きな、生命エネルギーであり、もしもそれを純粋に持ち続ける人がいるとしたら、それは大いなる能力であると思うのです。
皆、ちょっと大人になって分別がつくと、
すぐに傷つくからとか、安定したいからとか、疲れたからとか、自分にはもう関係ないからとか、或は損得とか、そういう事で頭に言い訳をいっぱい詰め込み、愛することを辞めてしまう。
それは、恐らく、エネルギーの枯渇状態からくる保身であって、天とも地とも、切り離されてしまったからなのでしょう。
もしも、人が、天からも大地からも、人々からも、溢れ出るエネルギーを受け取り続けることが出来たとしたら、人間は、愛することを辞めないでしょう。
なぜって
人も自然も、本当は愛そのものから出来ている。
愛そのもので他のものと繋がっている。
それを交流することなしに、生きていることなんて
本当は
できっこないのだから・・。
そんな事なしで、この世で生きていこうなんて
思ってやってきた魂は、一つだってないのだから・・・。
誰もがハートの奥底に持っている、
その覆い隠されたパワーを爆発させたいと
本当はあなたも私も
願っているのだから・・。