屋外に置かれたオブジェ

屋外に置かれたオブジェ

郷里の山梨にキース・ヘリングの美術館があったなんて、初耳でした。

正式な名称は「中村キース・ヘリング美術館」

中村和男さんという人が87年にキースの作品に魅入られて以来、集めてきた作品を中心に建てられたらしいです。

ご本人も最初は、こんなマンガみたいな絵がどうしてこんなに高いんだ、、と思ったらしいです。

キースといえば80年代のストリート・カルチャーを代表するアーティストでNYの地下鉄アートなどで一躍注目され、90年にエイズでこの世を去った今も世界中で支持を受けているヒト。

そんなマンハッタンなイメージの彼の美術館が小淵沢の高原の中に?

ちょっと意外だったけれど、それは彼のプリミティブなエネルギーともよくマッチして、さらにはその建物の個性と相まって、とても心地よい空間になっていました。

31歳という若さでこの世を去ったキースの一生を振り返るような設置の仕方になっているというこの美術館は、一切の紙に書かれた説明がなく、見学の最初に説明などが書かれているシートを渡されます。

気になる作品の詳細はソレをみて、、て感じですが、そのシートにも大したことは書かれていません(笑)

「混沌」から「希望」へと移行していく、作品展示になっいて、
混沌の「闇」の部屋は入り口の通路から本当に暗くて、超近代的お化け屋敷並みの暗さでした(つまり手探りで歩くほどの暗さ)

闇の部屋の作品の入り口部分には、「作品の中には特異な表現もみられますが、芸術的表現としてご鑑賞ください」
というような注意書きがあります。

「特異な表現」
というのは、性的なあるいは暴力的な表現ということだと、中の絵をみると分かります。
でもこのシンプルな線描だからこそ、これをフツーに見られるのか、シンプルなラインというのは、もしかしたら物事の本質だけを伝える絵画的表現なのか、、なんて思ってしまいます。

そして展示はいくつかの希望的部屋へと続いていくのですが、途中靴を脱いで入る部屋もあって面白かったです。

私はどんなものであれ、暴力的な、あるいはエグい性的表現の芸術というものは好きではありません。
でも、何故か彼の作品は好きです。

彼が亡くなる前の日記をみても、とてもシンプルで、特別な事は言っていない。あまりにも当たり前の言葉を彼だけが感じて表現できるラインとして表現していただけ、そう、多分だだそれだけの事なのかもしれないけれど、それだけに何故か心地よい。

私は人間の闇とか暗さとか複雑さというようなものを、単なる「カタルシス」として表現している芸術ってあまり好きになれない。

どこかに「突き抜けた」感覚があると、そこに惹かれるのです。

キースが「突き抜けて」いたかどうかなんて、本当は全然分からないけれど、でも、私にはキースの作品が心地よく、そして、この美術館がとても心地よかった。

床がナナメになっていた彫刻や大きな絵が展示された部屋を、2~3人の子供達が大喜びで走り回っていました。

それがまた、妙に幸せな気持ちにさせてくれる光景でした。

《キース・ヘリングの日記/抜粋》

◆1982年3月18日

1958年、ぼくはスペース・エイジの第一世代、テレビのテクノロジーと安直な幸福。そしてアトミック・エイジの時代のさなかに生まれ落ちた。60年代のアメリカ。「ライフ」でベトナム戦争を学んだ。
典型的なアメリカ白人中産階級の、暖かいリビングルームで、のんびりと平和にテレビから流れるベトナム戦争の戦闘を見て育った。
世界を変えようとか、救おうとかいう夢はない。
だけど、ぼくはここに人間として存在している。2000年前の人間と同じように、恐れている。ぼくは死ぬのが怖い。

◆1987年3月30日

制作することだけがすべて。アートはライフよりずっと大切だ。
アンディー・ウォーホールを見ろよ。突然逝ってしまった。思い出せるのは彼が残した「もの」だけ。
そしてすべてが、すべての思い出は永久に価値を失う。「もの」はぼくを生かし、思い出はぼくとともに死ぬ。

◆1989年3月7日-8日

ライフとアートを引き離すのは不可能だ。そしてぼくにとってライフと性は必然の運命にある。おそらくぼくの作品の背景にあるのはつまりこのことなんだ。哀れだと思う?それとも?
たぶん、本当にたぶんだけど、そんなに変な事じゃない。むしろとっても普通のことなんだ。

 

 

アメブロも日々更新中!

 

郷里の山梨にキース・ヘリングの美術館があったなんて、初耳でした。

正式な名称は「中村キース・ヘリング美術館」

中村和男さんという人が87年にキースの作品に魅入られて以来、集めてきた作品を中心に建てられたらしいです。

ご本人も最初は、こんなマンガみたいな絵がどうしてこんなに高いんだ、、と思ったらしいです。

キースといえば80年代のストリート・カルチャーを代表するアーティストでNYの地下鉄アートなどで一躍注目され、90年にエイズでこの世を去った今も世界中で支持を受けているヒト。

そんなマンハッタンなイメージの彼の美術館が小淵沢の高原の中に?

ちょっと意外だったけれど、それは彼のプリミティブなエネルギーともよくマッチして、さらにはその建物の個性と相まって、とても心地よい空間になっていました。

31歳という若さでこの世を去ったキースの一生を振り返るような設置の仕方になっているというこの美術館は、一切の紙に書かれた説明がなく、見学の最初に説明などが書かれているシートを渡されます。

気になる作品の詳細はソレをみて、、て感じですが、そのシートにも大したことは書かれていません(笑)

「混沌」から「希望」へと移行していく、作品展示になっいて、
混沌の「闇」の部屋は入り口の通路から本当に暗くて、超近代的お化け屋敷並みの暗さでした(つまり手探りで歩くほどの暗さ)

闇の部屋の作品の入り口部分には、「作品の中には特異な表現もみられますが、芸術的表現としてご鑑賞ください」
というような注意書きがあります。

「特異な表現」
というのは、性的なあるいは暴力的な表現ということだと、中の絵をみると分かります。
でもこのシンプルな線描だからこそ、これをフツーに見られるのか、シンプルなラインというのは、もしかしたら物事の本質だけを伝える絵画的表現なのか、、なんて思ってしまいます。

そして展示はいくつかの希望的部屋へと続いていくのですが、途中靴を脱いで入る部屋もあって面白かったです。

私はどんなものであれ、暴力的な、あるいはエグい性的表現の芸術というものは好きではありません。
でも、何故か彼の作品は好きです。

彼が亡くなる前の日記をみても、とてもシンプルで、特別な事は言っていない。あまりにも当たり前の言葉を彼だけが感じて表現できるラインとして表現していただけ、そう、多分だだそれだけの事なのかもしれないけれど、それだけに何故か心地よい。

私は人間の闇とか暗さとか複雑さというようなものを、単なる「カタルシス」として表現している芸術ってあまり好きになれない。

どこかに「突き抜けた」感覚があると、そこに惹かれるのです。

キースが「突き抜けて」いたかどうかなんて、本当は全然分からないけれど、でも、私にはキースの作品が心地よく、そして、この美術館がとても心地よかった。

床がナナメになっていた彫刻や大きな絵が展示された部屋を、2~3人の子供達が大喜びで走り回っていました。

それがまた、妙に幸せな気持ちにさせてくれる光景でした。

《キース・ヘリングの日記/抜粋》

◆1982年3月18日

1958年、ぼくはスペース・エイジの第一世代、テレビのテクノロジーと安直な幸福。そしてアトミック・エイジの時代のさなかに生まれ落ちた。60年代のアメリカ。「ライフ」でベトナム戦争を学んだ。
典型的なアメリカ白人中産階級の、暖かいリビングルームで、のんびりと平和にテレビから流れるベトナム戦争の戦闘を見て育った。
世界を変えようとか、救おうとかいう夢はない。
だけど、ぼくはここに人間として存在している。2000年前の人間と同じように、恐れている。ぼくは死ぬのが怖い。

◆1987年3月30日

制作することだけがすべて。アートはライフよりずっと大切だ。
アンディー・ウォーホールを見ろよ。突然逝ってしまった。思い出せるのは彼が残した「もの」だけ。
そしてすべてが、すべての思い出は永久に価値を失う。「もの」はぼくを生かし、思い出はぼくとともに死ぬ。

◆1989年3月7日-8日

ライフとアートを引き離すのは不可能だ。そしてぼくにとってライフと性は必然の運命にある。おそらくぼくの作品の背景にあるのはつまりこのことなんだ。哀れだと思う?それとも?
たぶん、本当にたぶんだけど、そんなに変な事じゃない。むしろとっても普通のことなんだ。

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中村キースヘリング美術館

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思わず記念に買ってしまったバッグ

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こんな素敵な森の小道の先にあります

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テーブルでパズルしたりビデオ観たりできます

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SHOPにあったワンピース。すごい素敵でした。(でも高くて買えなかった^^;

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