子供の頃から「自己探求」がシュミだった私は、自分の領域というか、自分にとって大切なスペース、心の領域、また自分の時間というものを侵されるのが大嫌いでした。
それは、私の性質として、他の人といるその人に合わせたり、気遣いすぎたり、相手の快い感覚に自動的に合わせてしまう傾向があったので、相手は心地よくても、後で自分が疲れる、といった事があったからかもしれません。
それが故に、無意識のうちに自分のペースを死守する、癖が身に付いたのかもしれません。
それはある意味、自分を知る、他者に自分を侵略させない、自己尊重としての自分への愛、ということでとても有意義なプロセスだと思います。
けれど、この自己探求をさらにさらに続けていくと、それをさらに突き抜けていく時が来ると思います。
それは、それほどまでにして守りたかった私が、愛したかった自分というものが、本当に自分だったのか、という事です。
そう、もちろんそれも自分。
でも、自己とは、実はもっともっと大いなる広がりを持ったものだった。
他人も自分の一部で、自分も他人の一部であることを発見し、自分の意識は他の多くの人々の意識と連携し、この人類や地球の意識と連携し、さらには宇宙全体まで広がっているという事を知ります。
そうした時、その自分を感じた時
では、その私はここで、人々の中で、何をしていきますか?
その問いに答えていくのが、日々の行動なのではないでしょうか。
その意識は、「宇宙という私のために」
生きるという意識かもしれません。
自分のためとか、人のため、という感覚さえ無くなっていくかもしれません。
自分を捨てて、何かに奉仕する、ということでもなく。
それをすると自分が嬉しいから、幸せだから。
そしてそれは、とても具体的である事が多いでしょう。
なぜなら、それは目の前にあることだから。
そんな小さくて大きな、「宇宙という私」のための一歩を
今日も踏み出していきましょう。
子供の頃から「自己探求」がシュミだった私は、自分の領域というか、自分にとって大切なスペース、心の領域、また自分の時間というものを侵されるのが大嫌いでした。
それは、私の性質として、他の人といるその人に合わせたり、気遣いすぎたり、相手の快い感覚に自動的に合わせてしまう傾向があったので、相手は心地よくても、後で自分が疲れる、といった事があったからかもしれません。
それが故に、無意識のうちに自分のペースを死守する、癖が身に付いたのかもしれません。
それはある意味、自分を知る、他者に自分を侵略させない、自己尊重としての自分への愛、ということでとても有意義なプロセスだと思います。
けれど、この自己探求をさらにさらに続けていくと、それをさらに突き抜けていく時が来ると思います。
それは、それほどまでにして守りたかった私が、愛したかった自分というものが、本当に自分だったのか、という事です。
そう、もちろんそれも自分。
でも、自己とは、実はもっともっと大いなる広がりを持ったものだった。
他人も自分の一部で、自分も他人の一部であることを発見し、自分の意識は他の多くの人々の意識と連携し、この人類や地球の意識と連携し、さらには宇宙全体まで広がっているという事を知ります。
そうした時、その自分を感じた時
では、その私はここで、人々の中で、何をしていきますか?
その問いに答えていくのが、日々の行動なのではないでしょうか。
その意識は、「宇宙という私のために」
生きるという意識かもしれません。
自分のためとか、人のため、という感覚さえ無くなっていくかもしれません。
自分を捨てて、何かに奉仕する、ということでもなく。
それをすると自分が嬉しいから、幸せだから。
そしてそれは、とても具体的である事が多いでしょう。
なぜなら、それは目の前にあることだから。
そんな小さくて大きな、「宇宙という私」のための一歩を
今日も踏み出していきましょう。