人間てすぐ感謝する事を忘れてしまいます。
というか、私にはそういう時があります。

本当はここに存在している事そのものが、ありがたい(「有り難い」ほど)あり得ないほどの確率の事なんだけれど、そんな事より欠けている、今現実にないものや、うまくいかない事が、思い通りになっていない事があると、そっちの方にばかり気持ちがいったりしてしまいます。
そんな時は、大体感謝が足りない時です。

私には、いくつもリアルに思い出せる過去生がありますが、その一つは中世のローマで、薬草で生薬をつくったりしながら、修道女の生活をしていた時のことです。本当に本当に質素な生活だったけれど、狭くて窓の小さな自分の部屋の、机の上に一輪の花があるだけで、それだけで、本当に幸せだった、そんな記憶です。その一輪の花に、大いなる神の愛や宇宙の広さを感じていた、そんな記憶です。
あの時の心の豊かさといったら、それはそれは計り知れないほどの揺るぎなき平安だったように思います。それは、今でも私のココロの幸せの基盤になっているように感じます。

今は、シャバで生きているので(笑)、あんな風にいつも心が平安でいることはできないのですが、その分チャレンジも多く、そしてもっともっと沢山の経験をすることができます。

ジプシーだったことも、科学者だったことも、ジャーナリストだったことも、戦っていたことも、魔女だったことも、いろんな事があったけれど、でも神聖なる宇宙の摂理に身を捧げる喜びを、私はいつも求めていたように思うし、これからも自分の基本にしていこうと思っています。

それは自己犠牲とか、現実的な豊かさを拒むということではなくて、単にそのことが私にとって一番自然だし、何よりも喜びだから、ということだと思います。

どういう路線で生きたいかは、本当に好みの問題で、何一つ間違った生き方なんてないと思います。どこからどう行ったって突き詰めればみんな真理にたどり着いて、ただそれが本当に自分が奥底で望んでいる事でない限り、喜びが少ないのだと思う。それが目印なのだと思います。

そんな時があると、私は感謝が少なかった事を思い出します。
感謝をすると、天の水瓶の底が抜けたように、つっかえていたものが流れ出すのです。いろいろな事に再び気づきはじめるのです。
私にとって、感謝をする事は当たり前の事なのに、その当たり前の事を忘れていると、当たり前に物事が流れなくなるのです。

例えば今日食べるものがあるとか、雨風をしのげて快適な部屋で眠れるとか、健康な体があるとか、家族や友人がいるとか、目が見えるとか、口がきけるとか、歩けるとか、手が使えるとか、、!(笑)

そういう素晴らしい事が沢山あるのに、それを精一杯使わないでいる事は何て愚かしいことかと思ったりもします。

斉藤一人さんという人がいて、私はとても好きなんですけれど、何故好きかというと、深い真理をこれ以上ないというような平易な言葉で繰り返し、繰り返し、しつこく、しつこく、これでもか、というくらい伝えようとしている、どうやったらどんな人にも分かってもらえるだろうか、と思ってひたすらやっている姿勢です。

人にはそれぞれスタイルというものがあるし、私は誰かの真似をしようとは毛頭思わないけれど、彼の言う
「出し切る」
という言葉が、とても私にはイタク響きました。
先日もその「出し切る」という言葉にハマってしばらく泣いていました(笑)
1年前にも同じ言葉にハマッた記憶があるので、人間て本当に忘れてまた気づいて、の繰り返しです。

私はどれだけ「出し切って」いるのだろうか。

「出し切る」は、消耗するまでただガムシャラにやる事とは違う。
ただ単に、淡々とその瞬間に「出し切る」ことなのだと思う。
そうしたら、そのまま宇宙から次のエネルギーが入ってきて、それをまた次の瞬間に出し切る、そうするとまた、、という具合。

そんな事、何でできなかったんだろう、、。
気づいてなかっただけかも、、。(笑)
とか、余計な観念がジャマをしていただけかも、、。

淡々と、日々感謝を忘れずに出し切っている人。
初心を忘れずに。。
そんな人になりたいと思います。

感謝をすると、いろんな事に気づけるのであります。

人間てすぐ感謝する事を忘れてしまいます。
というか、私にはそういう時があります。

本当はここに存在している事そのものが、ありがたい(「有り難い」ほど)あり得ないほどの確率の事なんだけれど、そんな事より欠けている、今現実にないものや、うまくいかない事が、思い通りになっていない事があると、そっちの方にばかり気持ちがいったりしてしまいます。
そんな時は、大体感謝が足りない時です。

私には、いくつもリアルに思い出せる過去生がありますが、その一つは中世のローマで、薬草で生薬をつくったりしながら、修道女の生活をしていた時のことです。本当に本当に質素な生活だったけれど、狭くて窓の小さな自分の部屋の、机の上に一輪の花があるだけで、それだけで、本当に幸せだった、そんな記憶です。その一輪の花に、大いなる神の愛や宇宙の広さを感じていた、そんな記憶です。
あの時の心の豊かさといったら、それはそれは計り知れないほどの揺るぎなき平安だったように思います。それは、今でも私のココロの幸せの基盤になっているように感じます。

今は、シャバで生きているので(笑)、あんな風にいつも心が平安でいることはできないのですが、その分チャレンジも多く、そしてもっともっと沢山の経験をすることができます。

ジプシーだったことも、科学者だったことも、ジャーナリストだったことも、戦っていたことも、魔女だったことも、いろんな事があったけれど、でも神聖なる宇宙の摂理に身を捧げる喜びを、私はいつも求めていたように思うし、これからも自分の基本にしていこうと思っています。

それは自己犠牲とか、現実的な豊かさを拒むということではなくて、単にそのことが私にとって一番自然だし、何よりも喜びだから、ということだと思います。

どういう路線で生きたいかは、本当に好みの問題で、何一つ間違った生き方なんてないと思います。どこからどう行ったって突き詰めればみんな真理にたどり着いて、ただそれが本当に自分が奥底で望んでいる事でない限り、喜びが少ないのだと思う。それが目印なのだと思います。

そんな時があると、私は感謝が少なかった事を思い出します。
感謝をすると、天の水瓶の底が抜けたように、つっかえていたものが流れ出すのです。いろいろな事に再び気づきはじめるのです。
私にとって、感謝をする事は当たり前の事なのに、その当たり前の事を忘れていると、当たり前に物事が流れなくなるのです。

例えば今日食べるものがあるとか、雨風をしのげて快適な部屋で眠れるとか、健康な体があるとか、家族や友人がいるとか、目が見えるとか、口がきけるとか、歩けるとか、手が使えるとか、、!(笑)

そういう素晴らしい事が沢山あるのに、それを精一杯使わないでいる事は何て愚かしいことかと思ったりもします。

斉藤一人さんという人がいて、私はとても好きなんですけれど、何故好きかというと、深い真理をこれ以上ないというような平易な言葉で繰り返し、繰り返し、しつこく、しつこく、これでもか、というくらい伝えようとしている、どうやったらどんな人にも分かってもらえるだろうか、と思ってひたすらやっている姿勢です。

人にはそれぞれスタイルというものがあるし、私は誰かの真似をしようとは毛頭思わないけれど、彼の言う
「出し切る」
という言葉が、とても私にはイタク響きました。
先日もその「出し切る」という言葉にハマってしばらく泣いていました(笑)
1年前にも同じ言葉にハマッた記憶があるので、人間て本当に忘れてまた気づいて、の繰り返しです。

私はどれだけ「出し切って」いるのだろうか。

「出し切る」は、消耗するまでただガムシャラにやる事とは違う。
ただ単に、淡々とその瞬間に「出し切る」ことなのだと思う。
そうしたら、そのまま宇宙から次のエネルギーが入ってきて、それをまた次の瞬間に出し切る、そうするとまた、、という具合。

そんな事、何でできなかったんだろう、、。
気づいてなかっただけかも、、。(笑)
とか、余計な観念がジャマをしていただけかも、、。

淡々と、日々感謝を忘れずに出し切っている人。
初心を忘れずに。。
そんな人になりたいと思います。

感謝をすると、いろんな事に気づけるのであります。