何故、今映画化なのでしょう。
先週のレディースディに地元の映画館で上映されているうちに、、と観に行ってきました。
もとの小説が自分の中で美しかったり、よく出来たものであったり、特別なものであればあるほど、映画化された時の何ともいえない違和感は大概つきものだったりします。
彼の作品はここ最近(15年位)はまったく読んでいないけれど
風の歌を聴け 1973年のピンボール 羊をめぐる冒険 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド ダンス・ダンス・ダンス
くらいまでは、次から次へと夢中で読んでいました。
その世界観は当時の(いわゆる)青春時代の私にとっては、かけがえのない公然の秘密の時空間のようなものだった思います。
何故って、もともと兄が村上春樹氏のデビュー作を家に持ち込み、私がそれを読み、世の中の若い人達(当時の大人達はどれだけ読んでいたのか知りませんが)の中では彼の作品はヒットしていて、彼の作品を読んでいる人は決してマイナーではなかったと思うのです。
けれど、彼の作品に流れる何かを、当時の私は決して誰かと語り合ったりはしませんでした。そんな事はしたくもなかったし、そうするには大切すぎる程の何かを彼の作品は私に対して持っていたのだと思います。
だから
今回、その20数年前の小説の内容などすっかり忘れて、敢えて読み返すこともせず、唐突に映画化されたかのようなこの映像を見て、私は何だか不思議な過去生回帰のような感覚を得ました。
あの世界に陶酔していた私。
それはまるで、過去生の映像のように私の頭の中で不思議な質感となって広がっていきました。それはもしかしたら、あの小説の中の感覚を理解する人としない人とで、私の中で線引きがあるかのような、そんなものだったかもしれません。
それほど大切なヴァリューのある何かだったように記憶しています。
それが
今は思い出の小箱の中味のような、そんなものになっていたのでした。
とてもとても懐かしい、けれど決してそこへ戻ることは二度とないもの。
それは単なる過去ではなく、たとえ生まれ変わったとしても、決してもうそこへは戻らないだろうと思うような、本当に終わったこと、とでもいった感覚だったのです。
20世紀の感覚なのかもしれません。
あの時、私はあれが好きだったのだ。
とでもいうような。
それは、とても傷付きやすくて繊細な、美しくも辛いものでもあったかもしれません。
あの時私は、自分の中に なおこ を見、同時に みどり を、そしてれいこさんを 見ていたのかもしれません。
そんな事を小説を読む者はよくするものです。
今思えば、どこかとても危うい精神性を、若い頃というのは持っていたりして、それは必ずしも年をとればなくなるとか、大人になれば解決するというものでもないので、自分でもそこはよく切り抜けてきたね、頑張ったね、偉いね、と褒めてあげたい気持ちなのです。
だから、そんな所へ戻るなどは、あまりにもあり得ない事なのかもしれません。
そんな事を、つらつらと考えながら映像を眺めていました。
何せ物語の舞台背景は60~70年代ですから、登場人物たちの暮らす家や建物の随所に泣かせるアイテムが溢れているのです。
キッチンの魔法瓶とか、玉のれん、ダイニングチェアのあのビニールの感じや、瞬間湯沸かし器。あの頃よくあった小さなベランダからの風景や街並。登場人物の洋服や持ち物、、。よくぞ揃えた!というような70’s風景の再現です。
それを見ただけでも私には涙ものでしたが、もう一つこの映画の凄いところ。
それはやはり、チョイ役の凄さでしょう。
糸井重里、高橋幸宏、細野晴臣の各氏がチョイ役で出ているのを見ただけでも(何の前情報も得ていかなかったので、本当にびっくり)満足な気持ちになりました(笑)
何の役で出ていたかは、これから観る人のために書きませんが。
ということで、まったくもって偏った感想にしかなっていませんが、私の中ではある意味でとても深~い思いを味わった映画でした。
そうそう、小説版を読んでいた頃の私は、決して他人とその話しをしなかった、と言いましたけど、一度だけ仲の良い男友達とこの「ノルウェーの森」のことを話した記憶があります。学生の頃です。
その友達「H君」は私ととても共通する何かを持っていたからだと思います。
そして、そういう男友達とは何故かつき合ったりしないものです。
彼が一言こう言ったのだけ覚えています。
「最後に《僕》がれいこさんと寝ちゃうの、ありゃ無いだろ」
と。(笑)
当時の私もそう思いました。
けれど今、思います。
それも、ある事かもしれないな・・って。
何故、今映画化なのでしょう。
先週のレディースディに地元の映画館で上映されているうちに、、と観に行ってきました。
もとの小説が自分の中で美しかったり、よく出来たものであったり、特別なものであればあるほど、映画化された時の何ともいえない違和感は大概つきものだったりします。
彼の作品はここ最近(15年位)はまったく読んでいないけれど
風の歌を聴け 1973年のピンボール 羊をめぐる冒険 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド ダンス・ダンス・ダンス
くらいまでは、次から次へと夢中で読んでいました。
その世界観は当時の(いわゆる)青春時代の私にとっては、かけがえのない公然の秘密の時空間のようなものだった思います。
何故って、もともと兄が村上春樹氏のデビュー作を家に持ち込み、私がそれを読み、世の中の若い人達(当時の大人達はどれだけ読んでいたのか知りませんが)の中では彼の作品はヒットしていて、彼の作品を読んでいる人は決してマイナーではなかったと思うのです。
けれど、彼の作品に流れる何かを、当時の私は決して誰かと語り合ったりはしませんでした。そんな事はしたくもなかったし、そうするには大切すぎる程の何かを彼の作品は私に対して持っていたのだと思います。
だから
今回、その20数年前の小説の内容などすっかり忘れて、敢えて読み返すこともせず、唐突に映画化されたかのようなこの映像を見て、私は何だか不思議な過去生回帰のような感覚を得ました。
あの世界に陶酔していた私。
それはまるで、過去生の映像のように私の頭の中で不思議な質感となって広がっていきました。それはもしかしたら、あの小説の中の感覚を理解する人としない人とで、私の中で線引きがあるかのような、そんなものだったかもしれません。
それほど大切なヴァリューのある何かだったように記憶しています。
それが
今は思い出の小箱の中味のような、そんなものになっていたのでした。
とてもとても懐かしい、けれど決してそこへ戻ることは二度とないもの。
それは単なる過去ではなく、たとえ生まれ変わったとしても、決してもうそこへは戻らないだろうと思うような、本当に終わったこと、とでもいった感覚だったのです。
20世紀の感覚なのかもしれません。
あの時、私はあれが好きだったのだ。
とでもいうような。
それは、とても傷付きやすくて繊細な、美しくも辛いものでもあったかもしれません。
あの時私は、自分の中に なおこ を見、同時に みどり を、そしてれいこさんを 見ていたのかもしれません。
そんな事を小説を読む者はよくするものです。
今思えば、どこかとても危うい精神性を、若い頃というのは持っていたりして、それは必ずしも年をとればなくなるとか、大人になれば解決するというものでもないので、自分でもそこはよく切り抜けてきたね、頑張ったね、偉いね、と褒めてあげたい気持ちなのです。
だから、そんな所へ戻るなどは、あまりにもあり得ない事なのかもしれません。
そんな事を、つらつらと考えながら映像を眺めていました。
何せ物語の舞台背景は60~70年代ですから、登場人物たちの暮らす家や建物の随所に泣かせるアイテムが溢れているのです。
キッチンの魔法瓶とか、玉のれん、ダイニングチェアのあのビニールの感じや、瞬間湯沸かし器。あの頃よくあった小さなベランダからの風景や街並。登場人物の洋服や持ち物、、。よくぞ揃えた!というような70’s風景の再現です。
それを見ただけでも私には涙ものでしたが、もう一つこの映画の凄いところ。
それはやはり、チョイ役の凄さでしょう。
糸井重里、高橋幸宏、細野晴臣の各氏がチョイ役で出ているのを見ただけでも(何の前情報も得ていかなかったので、本当にびっくり)満足な気持ちになりました(笑)
何の役で出ていたかは、これから観る人のために書きませんが。
ということで、まったくもって偏った感想にしかなっていませんが、私の中ではある意味でとても深~い思いを味わった映画でした。
そうそう、小説版を読んでいた頃の私は、決して他人とその話しをしなかった、と言いましたけど、一度だけ仲の良い男友達とこの「ノルウェーの森」のことを話した記憶があります。学生の頃です。
その友達「H君」は私ととても共通する何かを持っていたからだと思います。
そして、そういう男友達とは何故かつき合ったりしないものです。
彼が一言こう言ったのだけ覚えています。
「最後に《僕》がれいこさんと寝ちゃうの、ありゃ無いだろ」
と。(笑)
当時の私もそう思いました。
けれど今、思います。
それも、ある事かもしれないな・・って。